水槽試験と計算機の今昔
長崎総合科学大学・情報科学センター所報 No.7、1996所載
長崎総合科学大学 大学院 工学研究科 田村 欣也
水槽試験は、英国のWilliam Froudeが1872年南イングランドの地に、英国海軍の支援を受けて水槽建設を行ったのをもって、其の創始としている。もっとも、かつて旧ソ連圏においては、ロシヤのKrilovがその創始者であると主張されていたが、その当否はさておき、その創始時の水槽試験結果の解析にどのような計算手段が取られていたかについては、残念ながら明確な記録は残されていないように思われる。
著者は、1987年4月、英国海軍Haslar水槽における水槽開設100周年記念式典に参列したが、100年前に建設され現在も使用中の同所第1水槽において、担当者が山高帽にフロックコート姿で試験の指揮をを行い、100年前当時の水槽試験の模様を彷彿とさせていた。しかし、試験結果の解析は現行のとおり行われ、開設当初の計算手段までは伺い知ることは出来なかった。
こんな訳で、表題を「今昔」としたものの、其の期間は高々筆者が水槽試験に携わるようになってからの、ここ40年間の出来事に限らせて頂くことを、お許し頂きたい。
私が三菱造船(当時)の長崎水槽に配属されたのは、入社半年後の1953年秋であるが、当時の水槽試験結果の解析においては、乗除はタイガー式計算器とフーラー式円筒計算器が使用されていた。なお、加減計算は専らソロバンで、これにかなう便利な計算器はなく、ソロバンのない国ではいったいどうしているのか、大変気になった次第であった。
タイガー式手動計算器は、まだご存じの方もあると思うが、歯車の組み合わせで構成され、これを正逆いずれかの方向に必要な数だけ回転させることによって加減を繰り返し、乗除を達成するものである。したがって、これが数台同時に稼働すると、ガシャ、ガシャ、チーン、チーンとかなりにぎやかになったものであった。ただ、手動の悲しさ(或いは良さ)で、あまり長続きさせることは出来なかった。
一方のフーラー式計算器は、二重の円筒上に其々対数目盛が刻まれており、丁度計算尺を円筒に構成したものとなっている。しかし、通常の計算尺(長さ30cm)が高々有効数字2桁を与えるのに対して、こちらは有効数字3桁までは可能という中々の優れ物であった。片手で把手を支えながら、もう一方の手で円筒を回して計算を行うのであるが、机の端に把手を支持する金具を取り付けて使用している人もあった。当時使用していたものは、英国製で、第2次大戦前に輸入されたもので、或いはFroudeによる水槽試験創始期から、すでにこの種の計算器が使用されていたのではないかと想像したくなるような、厳(いか)めしい存在であった。
私自身は、フーラーは敬遠して、専らタイガー計算器とソロバンを愛用していたが、実船の性能推定やプロペラの概算を行うため、特に通常の2倍の長さがある60cmの計算尺を購入して、併せて使用していた。これは社内の関係先に出かける時も持参したため、「また、田村が例の長脇差を持ってきた」と陰口をきかれたこともあったとか・・。
間もなく電動計算機時代の幕開けとなり、まず購入したのがUSA製のモンロー計算機である。しかし、複雑な機構を小さなスペースに纏めたのが災いしてか、名前のとおり移り気でご機嫌が悪く、故障の頻度が高いためやがてお蔵入りの運命をたどった。この時期に現われた電動計算機はいずれも五十歩百歩で、私達の使用に十分耐え得るものは現われなかったように記憶している。
1960年1月、私は約1年間の予定で西独のハンブルグ造船研究所(ハンブルグ水槽)に留学した。この際どのような計算器具を持参すべきかを考えたが、荷物の都合で長脇差はあきらめ、通常サイズの計算尺とソロバンを選んだ。
ハンブルグ水槽でソロバンを披露した時の騒ぎは読者の御想像にお任せするとして、「さあ、加減の計算を続けて読み上げてください、いくらでも計算してあげます」の口上宜しく計算を始めたところ、問題が生じた。ご承知のようにドイツ語の数字の読み方は、10位と1位の順が逆になっており、例えば536は、500と6と30の順で読み上げられる。したがって、それを耳で受けながらソロバンを正しく入れていくのは、並大抵のことではなく、私はドイツでソロバンが発達しなかった原因は、ここにあったのではないかと思ったほどであった。勿論、暗算で加減する場合も同様で、デパートなどで買物をするとき、必ず釣りを筆算で計算するのは真にむべなるかなと、改めて納得した次第であった。
このようなドイツ語の数字の読み方が、同国の理学や工学の発展にどのようにかかわったかについて考えるのは、甚だ興味のある問題のように思われるが、今回はこれ以上立ち入らないことにする。
私とコンピュータとの最初の係わり合いは、このハンブルグ水槽留学中に生じた。副所長のO.Grim教授の指導を受けていた私は、同教授が開発した方法にしたがって、波浪中に置かれた物体の付加質量、波強制力、減衰力の計算を行うことになった。当時、ハンブルグ水槽にはコンピュータは無く、ハンブルグ大学の計算センターにあったIBM-650を用いて計算を行うことになった。
このIBM-650は、コンピュータとしてはごく初期の部類に属し、プログラムはすべてドイツ語を用いたマシン語で作成し、データをstoreする番地、データの出し入れ、計算の細かいやりとりを、すべて誤り無く指示しないかぎり計算してもらえないという、大変な代物であった。
おまけに、プログラム、計算データ等のインプットは、すべてカードにパンチして供給する必要があり、かつオープンショップ制であるため、すべて自分でカードのパンチを行ない、予約した時間にコンピュータ室に行き、カードを装填し、スイッチを入れコンピュータの作動を見守るという大変心細い状態で計算を行わねばならなかった。当時、英文タイプもまともに打てなかった私にとっては、カードのミス率は3枚に1枚程度であった、しかしコンピュータの予約時間が迫るにつれてミス率は2枚に1枚と上昇し、最終の1枚は数枚打っても仕上がらないという状況にまで追い込まれたりした。
最初、私は自分の使ったプログラムにミスが有るかもしれないということに迄は思いが至らず、計算の途中でコンピュータが停止した際に、管理者のもとにコンピュータが故障したと血相を変えて飛び込み、最初のトライアルと説明した途端に大笑いをされたこともあった。もっとも、この時は本当にコンピュータが故障しており、妙なところで評価を高めてしまった。
当時、ハンブルグ水槽でもコンピュータを使用した経験者は少なく、珍しそうに計算したアウトプットを見にきた人も少なくなかった。勿論私にとっても、得難い貴重な経験をさせて貰ったとGrim教授や、直接プログラム作成の指導を受けたスタッフAlef氏に深く感謝した次第であった。
ハンブルグ水槽での留学も終わりに近づいた1961年の2月、ハンブルグ水槽もコンピュータの導入に踏み切ることとなり、担当のAlef氏がドイツのコンピュータ・メーカーであるZUSE AGの機種を選び、同社を訪問して仕様の詳細を打合わせることとなった。
この際、帰国の迫っている私にもドイツのコンピュータ・メーカーの工場を見せてやろうとの配慮で、Alef氏に同行して、中部ドイツの東西ドイツ国境に近いBad Hersfeldにある工場を訪問することが出来た。同社は従業員200人ばかりの小さな規模で、社長のDr.Zuseの陣頭指揮の下で、コンピュータや各種機器の開発に取り組んでいた。
この詳細を述べることは今回の目的ではないので省略するが、Dr.Zuseの話を聞いているうちに、コンピュータの将来は大型化、大容量化よりも、むしろ其々の机の上において使用するような小型化、簡易化にあるのではないかと言う考えが浮かんできた。これはZuse社がIBM、Siemensと言った強豪の狭間で、生き延びる方策を模索していたことに関係して印象付けられたためかもしれない。
帰国後、早速国内の或る大手電機メーカーのコンピュータ担当者を捕まえてこの話をしたところ、今後のコンピュータは益々大型化、大容量化して集中化する傾向にあり、小型化等は論外として一笑に付されてしまった。現在のパソコン全盛時代を見るにつけ、なんとも複雑な思いに駆られざるを得ない次第である。
帰国してみると、既に長崎造船所の計算センターにIBM-1620が入り、技術計算のコンピュータ化がスタートしていた。しかし、水槽試験結果の解析はturn around timeの関係もあって、まだ直接これを使用することはなかった。
この時点で先ず行われたのはカシオ・リレー計算機を水槽曳引車上へ設置することであった。続いて、計算室にオリベッティ・プログラマ101の導入を行ない、ここで初めてプログラムの磁気カード使用による各種の解析計算がスタートした。そして、時代はコンピュータの世紀へ向けて急展開を始める。
先ず、水槽曳引車上にミニコンピュータの設置が行われ、計算室に設置されたIBM-1130と紙テープを介したデータの受け渡しを行う方式がスタートし、ついで其々の機種を更新し、ディスクを用いてのデータの受け渡しへと発展した。一方、この当時新設された耐航性能水槽においては、計算室にHP1000、曳引車上にミニコンピュータを設置し、さらに両者間を光を介して連結し、曳引車が走行中にもデータの送受信を可能にするなど、新しい展開が行われた。
現在は、各人の机のうえに其々1台のパソコンが置かれ、ほとんどすべての作業がこれを介して行われている状況にある。私が入社した当時の状況から見ると、まさに隔世の感が有ると言わざるをえず、其のあまりの変化の大きさに驚かざるをえない。然し同時に、研究者が直接試験に立ち合い、現象を直接自分の目で観察することは薄れつつあるように思えてならない。
研究者が、其々ただ黙々とコンピュータとの対話に大部分の時間を費やしている現状を見るにつけ、「水槽とコンピュータの係わりあいはこれで良いのか」という疑問も、時として生ぜざるをえないが、これは私が古い人間になった故であろうか。
「水槽試験におけるコンピュータとの係わり方の現状と詳細と今後の見通し」に対する答えは、現在其の火中にある、若い世代の方たちから是非頂きたいものと希望して、この小著の終わりとする。
上記 田村欣也 氏 の記述の中に出てくる各種計算器具についてのリンク