資料調査報告(No.18):2018年10月発行「戦後の産官学協同体制の萌芽を示す小型客船建造体制に関する資料類」

説明文:藤村 洋(造船資料保存委員会)
図面リスト作成:藤村 洋、濱田 淑(造船資料保存委員会)

1 まえがき

海運・造船の様々な場面:研究体制、問題解決のための体制などの場面で「産・官・学の協働」という言葉がよく使われる。しかし、この言葉は随分広い内容を持った言葉である。
要素として挙げられることを並べてみても次の通り多彩である。

参加者:
[産] 海運業界、造船業界、舶用品業界
[官] 行政官庁(立法関係、検査監督関係、生産量調整関係、技術開発関係)、船級協会、国際規制対応機構
[学] 学会、大学、研究機構

時期:戦争前、戦時中、戦後、環境問題提起後
対象:航行安全、船体安全、環境問題、新技術の開発・実用化
範囲:国内、国際(国連)
機能:立法(起案、協力)、技術指導、検査監督、問題解決、研究開発体制検討

国内を例に、大きな変化を挙げてみると、明治開国当時の極めてシンプルな技術指導の段階における官と学の協力、軍艦建造における密接な軍と学の協力、戦時中の挙国体制、戦後の復興に当たっての生産支援と溶接などの密接な産と学の技術協力、IMO体制の確立に伴う国内体制の整備、地球環境問題の国際的拡がりへの対応、これらに伴う技術立法分野に於ける産・官・学の協力体制の進化などが挙げられる。

これらの協同体制について考えると、学会の機能が大きく変わってきていることを認識しなければならないと思われるが、ここではこれらの変化が実際にどのような形で起こっていたかを、東大運動性能研究室の資料から実証的に記述して今後の研究の参考に供したい。時期は、強烈な国家統制が敗戦で崩壊し、占領体制の下にあった時期であり、対象となる資料は多数の小型客船の、主として復原性関連の図面と、1冊の仮綴じのガリ版刷りの「旅客船計画審議委員会」の記録であり、表紙には「山縣昌夫委員」と所有者名が書かれている資料である。

後者すなわち「旅客船計画審議委員会」記録は、内容の記述が詳細であり、かつ当時の事情を詳細に反映しているので、全文閲覧可能なようにコピーを収録した。(以後「委員会資料」と呼ぶ。)
前者は多数であり図面の内容はほぼ一定しているので、どの様な船の如何なる図面が東大に提出されたかをリストによって示すこととし、図面そのもののコピー提示は省略した。(以後「図面資料」と呼ぶ。)

2 東大に何故多くの小型貨客船、小型客船の実船図面が所蔵されていたのか

それぞれの図面について、東大が所有するに至った経緯を説明した資料は乏しいので、正確な経緯を知ることは難しいが、小型の貨客船・客船の図面については下記のような背景を知ることが出来た。

小型客船、貨客船に分類される船については、添付「図面リスト」の通り27隻の船の図面が含まれる。
このうち18隻は敗戦直後の昭和22~23年に建造された「28隻組」と称されるグループに属する船である。この28隻組が建造された経緯は、「旅客船計画審議委員会」資料に依れば、大略次の取りである。

「資料1」昭和21年9月27日付け、運輸省海運総局船舶局長発 造船聯合会会長宛 書信 (「委員会資料」PDF 3/284P)「旅客船建造計画審査委員会の設置について(要旨)」

現下の甚だ逼迫している旅客輸送の緩和を図るため76隻-72,300GTの旅客船を速やかに建造しなければならない。この様な大量の旅客船を急速に建造したことはかつてないこと。国家の経済にも大きな影響をもつ。船体・機関・艤装品の入手、価格低減をなし、優秀な旅客船の建造を図るために、貴会内に旅客船建造計画審査委員会を設けることを慫慂する。
委員は各監督官庁、船主、造船所より選出し、今期建造予定の旅客船の基本計画、資材手当など、また既製品、特殊物件(戦時製作品の余剰品か?)の利用などについて検討する。(聯合会は現在で言えば「造船工業会」に相当する業界を束ねる団体である。)

ここで「指示または依頼する」という言葉ではなく「慫慂する」という持って回った表現を使っていることに注目したい。原書類ではこの部分は「手書き」で訂正書きされている。これは察するに、行政官庁と業界団体の位置関係が戦時中の「官」が民に指示命令するスタイルから民の主体性を尊重する姿勢に変わったことを示していると考えられる。占領軍の指導があったか、それを忖度して途中で修正したものと思われる。

この時点では必要船腹量の設定やそれの建造許可などは日本政府にあるという意識で動いている。しかし、実態はそうではなく、日本政府の上に君臨していた占領軍総司令部General Head Quarter (GHQ)の判断が決定的なものであることを次の「資料2」が示している。

「資料2」1946年10月30日付け、GHQのMemorandum(「委員会資料」PDF 18/284P)
Subject:Application for Permission to Construct Small Sized Passenger Vessels

これにより76隻の建造は認められず、28隻の建造のみが認められた。2隻の海軍舟艇の改造は認められなかった。 これが後に「28隻組」と言われる一群の小型旅客船のスタートである。運輸省が聯合会へ委員会設立を「慫慂」してから、わずか1ヶ月後に建造隻数の大幅削減というGHQの指示を受けている。両者の間の意思疎通の難しさを示している。

この時期占領軍側にも大きな変化があった、それは「東洋委員会」のちに「極東委員会」と改名される連合国全体の日本占領政策決定機関の設定などである。造船に関する賠償政策などもこれにより大きく変動したことは知られている。小型旅客船の隻数変更、速力の制限設定などもこの影響のひとつと考えられる。
(議事次第の余白に山縣昌夫氏の記入と思われるメモ書きがある。「第1次28隻、・・極東理事会がSpd15ノットの指示」と書かれている。)

しかし、この対象船の減少決定通告よりも早く10月7、8両日第1回委員会と言うことで、ともかく小型旅客船の建造に関する計画の検討は始められた。

「資料3」昭和21年10月7日8日開催の第1回旅客船建造計画審査委員会議事録(「委員会資料」PDF 22/284P)

委員長:造船聯合会 小野暢三、海運総局 松平造船課長、

A委員:
海運総局 水品、植村、奥田技官
(A委員は常時参加、B委員は担当事項に参加)
船舶試験所 第3部長
東大第一工学部 榊原教授、第二工学部 松本教授(両教授とも造船所出身者)
海事協会 常松技術部長、山県昌夫
海運協会 坂田弥一郎、横山渉、竹内誠一、稲垣善一朗
船舶工業連盟 光武為吉
造船聯合会 成島秀 ほか

B委員:
[船主側]日本郵船、大阪商船、三井船舶、日本海汽船、南洋海運、東亜海運、川崎汽船、東海汽船
[造船所側]三菱横浜、名古屋造船、日立桜島、藤永田、佐野安、川重、三菱神戸、播磨造船、三井玉野、三菱広島、三菱長崎

主な審議事項

米軍司令部の意向:速力当初は制約なしだったが、「東洋委員会」(のちの極東委員会か)にて15ノット以下とされた。総トン数は2000噸以下、2300噸くらいならよかろう。
許可申請の内容、許可の期間などについて憶測的議論。
各船型毎に最高速力の定義、鋼材の規格など基本計画上の問題点を協議。

今後の検討事項

特殊物件の主機の正常馬力を定める件、乗組員の標準数を定める件、線図は各造船所で作成。
最高速力と航海速力の定義を決める。
水槽試験については小委員会を設ける。
復原力についても小委員会を作ることを検討。

「資料4」 昭和21年11月25日開催の第2回旅客船建造計画審査委員会議事録(一部)
(「委員会資料」PDF 61/284P)

この委員会にて復原性に関する協議あり。

参考として「客船の復原性に関する米国海事標準委員会の提案」(雑誌Shipbuilder192612月号P542を和訳したもの)を提出、さらにこれに基づいて三菱横浜が試計算した結果も提出された。東大榊原委員より復原性は難しい問題もあるので小委員会を設けるのがよいと提案、了承され人選は幹事に委ねられた。

「資料5」昭和22年2月13,14日第3回旅客船建造計画審査委員会議事録(一部)(「委員会資料」PDF 147/284P)

この回において小型客船の復原力研究小委員会の委員長となった東大加藤弘教授が出席し、復原力の程度決定に関する研究方針を述べた。

これに対し小野委員長は次の通り述べた。

「大正8年に逓信省において第1回フリーボード会議開催せし際、原案の条文に“この規範の適用は船がサフィシエント スタビリティーを持つことを条件とする”とあった。その折り某委員からサフィシエント スタビリティーは何により決定し、如何にして知ることが出来るか、という反論が出されたことがある。これを決めることと現実の数値を知ることが問題なので、今後充分研究を進めたく思う。」これに引き続いて東大の榊原委員からは「Japanese Formula of Stabilityを発表する程度にまで行きたい」とのフォローがあった。小野委員長は「小委員会を設けて充分な検討を行う」との決意を述べている。(「委員会資料」PDF 156/254P)

占領下における問題を離れ、復原性に関する国の法規制の根本問題を議論する姿勢はこの後の行政のこの問題への積極的な姿勢の元となっているように思われる。

「資料6」昭和22年5月22日 第8回(緊急)旅客船建造計画審査委員会議事録(要約) (「委員会資料」PDF 234/284P)

海運総局松平造船課長より緊急問題の説明あり。今期旅客船建造については連合軍の許可を得て着工したが、突如連合軍C.T.S.としては日本の実情を考え客主貨従よりも貨主客従にすべきであると判断、計画を変更するように口頭指示を受けた。各社の工事進行状況を聞いて、如何に対応すべきか協議したい。各社意見を述べたが大半は変更困難、元来は貨物主体にしたかったのを客を積めと言われた、今更変更とは納得しがたい、など強硬意見。結果として具体的にCTSと話し合うことになった。本件その後話し合いを行い第9回委員会にて結果報告がなされた。

結果的に変更は限定されたが、何隻かは変更のやむなきに至った。

今回、調査の図面でも完工後変更した船も散見されたが、上記の事情によるものであろう。占領下の苦心が偲ばれる結果である。

「資料7」昭和23年5月某日付 臨時旅客船建造計画審査委員会終末報告(一部要約)(「委員会資料」PDF 259/284P)

昭和22年9月15日造船聯合会は“閉鎖機関”(閉鎖機関:しばらく残置が許されていた戦時中の諸機関に占領軍から閉鎖が命じられた)の指定を受けたため解散、同会内に設けられていた旅客船建造計画審査委員会は他の機関に移設することを検討したが、主として費用の点で良策がなく、解散の止むなきに至った。これに伴い終末報告書並びに付属書第1号~第5号を作成配付した。

前述のように積極的な意見が出された復原力研究小委員会に関する経過は附属書第1号の記述に依れば、下記の通りである。

  • *昭22年5月31日 第1回小委員会開催、海軍の水路部、艦政本部等の資料及び外国の文献を各委員より提出せられ研究方針を審議。
  • *昭22年6月20日 第2回小委員会開催、主として風速と波の関係に関して協議。
  • *昭22年6月24日 第3回小委員会開催、主として乗客移動ならびに操舵に関し協議研究、現在建造中の各型船につき計算方式を決定。
  • *昭22年7月9日付けにて先に決定した計算方式により各型船の復原力計算を担当造船所に依頼。
  • *昭22年10月25日 第4回小委員会を開催、各型船の復原力計算により適否を審議。
  • *昭22年11月4日、東京発の三菱神戸建造、東海汽船新造船あけぼの丸に乗船し第5回小委員会を開催、石井監督ならびに同船船長より実情の説明あり、4日、5日の往復航海中、本船の復原力に関し調査研究を行った。

復原力研究小委員会の報告は第4号付属書として収録されている。これに依れば下記の1隻の既建造船、7隻の新船について「一定風圧のもとで旋回中に突風を受け、舵を元に戻した時に旅客が片舷に移動したときの動的復原力を計算して」比較評価を行っている。

既建造船

にしき丸 三菱神戸

新船

るり丸 2000T 三菱長崎 黒潮丸 500T 播磨
(小樽丸) 2000T 同上 はやぶさ 400T 佐野安
(黒潮丸) 1300T 三井玉野 あけぼの 300T 三菱神戸
舞子丸 1000T 三菱広島

この7隻の新船はすべて28隻組に含まれている船である。

この計算と評価が多分日本で初めて「ある種の復原性基準に基づいて複数の船の復原力を比較した例」ではなかろうか(軍艦は除く)。この小委員会では波浪中の動揺などの影響について議論を進めようとしていた段階で解散となった。しかし、復原性基準については東大では加藤弘教授が、九大では渡邉恵弘教授他が研究を行っており、また管海官庁でも国内航路の海難事故防止のために何らかの基準が必要であると考えていたので、復原性基準策定に関するいろいろな動きがあったことは想像される。

東大資料の中には下記のような経緯不明の復原性基準に関する資料もあった。

「資料8」 作成年月日不明、題名なし 復原性能調査結果の報告

「本表は主として終戦後建造された小型客船の内、内海を航行する船舶の復原性能を調査して一表に纏めたものである。」とのまえがき。計算方法は東大加藤弘教授の“小型航洋船の復原性能判定法”による。対象船は13隻でそのうち7隻は今回我々の調査した27隻に含まれている。

以上の諸資料から類推すると、これら小型貨客船などは復原性基準の試計算対象船として各社から東大に提供されたものと思われる。ただし、すべてこの目的だけに用いられたのではなく、操縦性能の検討にも併せて利用されたと思われる。その結果同じ船の同じ図面が2通あるケースが多数ある。

復原性能計算のために提供された時期は昭和24年~30年頃と思われる。

3 委員会資料から見えたこと

この委員会の審議情況をもって全体を判断するのはやや乱暴であるが、戦後行われた行政の造船業界とのこの種の具体的な接触は、この委員会が多分はじめてに近いと思われる。この会議のやりとりを観ると、マクロに行政と業界の技術統制に関するやりとりの実態を想像することが出来、およそ次のようなことが言えるように思われる。

(1)ある種の統制された建造を行うために必要とされる技術標準は存在しなかった。
戦時中は統一した設計で同一形態の船を大量建造する必要に迫られたが、これは設 計を統一する形で実行されていた。この小型旅客船建造のように各社が勝手に設計することを横通しするような標準はなかった。

(2)しかし、このあとも計画造船というような方式で、ある種の枠の中で各社が自由に設計するようになると、補助金の支給のベースとなる評価などの目的での技術標準が必要になって行く。社会的要請、技術の進歩に伴いそのようなニードが出てきたと思われる。

(3)具体的には、例えばGHQから「速力は15ノット以下」と制限されても、ではどんな喫水で、どのレベルの馬力の時に計測した速力かということが決まっていないと統一的な判断が出来ない。それを決める基準を作っておかねばならない。

(4)これらの標準のためには、この後それぞれ専門部会が作られ、具体的な標準が作られていった。この中の例で言えば、速力・馬力に関するものは、おそらく計画造船対象船で要求された「確定速力算出明細書」に纏められる標準となっていったと思われる。

(5)これらの基準は米国においても作成された。「Standardization Trial Code」という名称で具体的な試運転実施標準となっていった。

(6)一方やや趣を異にして安全性の基準として進んでいったのが、復原性基準である。ここで開陳した資料では完結していないが東大加藤教授の研究として継続され、その作業を各社が図面提供、計算実施などの形で応援する方式に展開していった。さらに具体的な法規制としては運輸省に専門職制が置かれ、九大の諸先生方との連携も加わり成就していった。

(7)ここに示した資料はその極めて初期段階の動きである。しかし、法規制の作成段階から実施を担う産業界が協力することにより、難しい規制を円滑に実行してきた実績の基礎はこの産官学協働の姿勢に負うところが大きいことがこれらの資料からうかがい知ることが出来る。

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