資料調査報告(No.2):2010年3月発行「工業高校における造船教育の軌跡」

3.工業高校における造船科の歴史

3.1創始期

現在の工業高校、戦後の学制改革以前は工業学校と言われていた中等実業学校で造船科を持っていた学校は最盛期には22校あった。その内の2校すなわち三重県立伊勢工業高校と広島県立木江工業高校が明治末期と大正初期に誕生している。

伊勢校の誕生の経緯については「三重県立伊勢工業高等学校 百周年記念誌」[8]に記述されているが、伊勢校と木江校の2校は木造船建造のための中堅技術者を養成したいという地元の要請により、高等小学校の補習科の形で養成がはじまり、次第にレベルアップして後に実業学校令による工業学校になったと思われる。前節最後段に述べた当時の一般状況と似た経過であったのであろう。この2校でも、小学校の「防貧」という消極的な目的よりも、新しい仕事に参加したいという積極的な意欲が原動力になっていたように思われる。

ただ、木造船建造は日本各地で行われていたと思われるが、造船徒弟学校が出来たのは僅かにこの2地区だけであったのであろうか。他には出来なかったのか、他にも出来ていたが工業学校にまで成長しなかったのか、この点は不明である。もし後者であったとすれば、何故この2地区で成長があったのか、造船産業の地域的分布という面から調べる必要があるように思われる。

木江校の場合、創立半年後の大正9年1月に校名を「木江造船工手学校」と改めている。その後昭和9年に「木江造船学校」と再び改めている。何故一旦「工手」を付けて、あとで外したのか、今回の調査では解明できなかった。推測に過ぎないが、当時東京の「工手学校」の周辺で、工手という名前のイメージが当初の、今日で言う、「技手」的なイメージから「工夫」「職工」的なものへと低下したことなどが影響したのではないであろうか。

3.2戦中の増設

その後の工業学校造船科の増加状況は「図―1 全国高校造船科の設置と廃止の歴史」に示すとおりであり、第2次大戦期に8校が設立されている。それぞれの学校の設立経緯は調査できていない。僅かに昭和18年に設立された徳島東工業学校の「造船科記念誌:平成4年3月発行」[9]が、手元にあるだけである。これらの学校は、はじめの2校の場合と違い、国策に基づいていずれも実業学校令に基づく工業学校として設立されたものと思われる。そして戦後の学制改革により新制の工業高校とされた。

上記、徳島東校の記念誌P16以降によれば、同校(当時は徳島市立工業学校)の造船科設置は昭和17年の臨時市議会で議決され、昭和18年2月17日に文部大臣から認可された。戦時の船舶不足に対応するためであった。4月開校を予定され、定員40名に対し入学志願者は71名という人気であった。

さらに戦争の終わりに近い昭和19年徳島市は同校に第2部(夜間)を設置し4月から授業を開始したいと認可申請を出した。これは『現に勃興せる木造船などの工業並びに近く航空廠及び川南造船所の開設に伴い少年工員は益々激増せんとする情勢に鑑み』申請されたものである。造船科、機械科それぞれ200名づつであった。

『この当時戦局は重大で輸送力増強、船腹確保は国家の至上命令であった。同年6月新校長として広島県立木江造船学校長、宗藤良而が着任したが、これは新設の造船科を充実させることが戦時下の本校の大きな目標となったことを意味する。

しかし、もともと本校に造船科の設置されたのはそれだけにとどまらない因縁があった。藩政時代徳島には安宅役所があった。これは阿波水軍の基地であり、軍船の建造・修繕が行われていた。・・全国的に見ても造船科設置は4校目であった。昭和19年度20年度の2期生、3期生は二クラス百数十名が入学し、二部も設けられた。しかし、昭和20年8月に敗戦を迎え、さらに引き続く学制改革により造船科の生徒は転校、退学も多く、併設中学卒業、工業学校卒業、工業高等学校卒業といろいろな道を辿ったのであった。二部生で昼間部に転入したものも相当数あった。』

このような状況の中、造船科は廃止の危機にさらされたが、教職員、PTA関係者の陳情・力説により存続再出発が決まった。また、宗藤校長をはじめとする大阪工専、阪大出身の教諭陣も無念のうちに退職するなど変動もあったが、これを乗り切り、昭和31年には県立の独立校・徳島東工業高校となった。
この間卒業生の就職については、無名の新設校としての、教職の苦労の連続を経て、次第に大手各社に技術職・設計で採用されるようになっていった。

『昭和40年代は造船ブームと言われ、船はいよいよ大型化した。20万トンより30万トンへさらには50万トンタンカーが出現したのである。これに応じて30万トン、50万トンドックを備えた造船所が各地に作られ・・阿南市の橘湾にも住友重機械の大型造船所進出が計画され実現の寸前まで進行していた。これに備え昭和49年の造船科は増募となり二クラス75名が入学した。』

以上、引用が長くなったが徳島東校の設立からピークまでの経過は、戦時中に設立された造船科が等しく辿った道ではないかと思われる。この間のカリキュラム、教科書、就職先など様々なデータがこの記念誌には掲載されており、この時期の工業高校造船科の状況を知るためには貴重な資料である。

3.3戦後の急激な増加、造船界の低迷と共に閉校・閉科

第2次大戦後、日本の造船界が次第に活況を呈すると共に工業高校の造船科もその数が増え、私立を含め12校が増設された。しかしながら、造船界が第1次、第2次のオイルショックを経て次第に苦境に陥り、建造設備能力や人員の削減に追い込まれると共に工業高校卒業生の造船界への採用も減り、学科休止、閉鎖のやむなきに至る学校が増えた。

その後造船市況は回復を見たが、造船業の山谷の激しさは関係者の記憶するところとなり、他方少子化、若者の高学歴指向など社会的な変化も加わって工業高校造船科が退勢を挽回するには至らなかった。伊勢、木江の2校も、木江が平成10年(1998)4月に募集停止、79年間の歴史に幕を引き、伊勢が平成17年(2005)4月造船科廃止を行い107年間の歴史を閉じた。これにより調査時点で造船科が残っている高校は、高知県立須崎工業高校と山口県立下関中央工業高校の2校のみとなった。

大学の造船関連学科が、教育内容の拡大、科名の変更、留学生の受入などの方法により“延命”を計っていることと比較し、工業高校では様々な制約のためにそのような形をとることが出来ず、学科廃止という状況に追い込まれたのは誠に残念なことである。
廃止された造船科のうち、伊勢・徳島については閉校に伴う記念式が行なわれ、モニュメントが設置され、資料館が開設されている。他の学校についても似たような行事が行われたのではないかと推測するが、確認できていない。

3.4工業高校とその教育の目標

戦後の昭和22年(1947) 3月新しい学校教育法が制定され、いわゆる6・3・3制が実施された。翌年昭和23年(1948) 1月高等学校設置基準が定められた。これによりそれまでは中学並みであった工業学校は昭和23年(1948)4月から一斉に工業高等学校に変わった。

また、『工手学校以来の長い伝統と異色をもつ夜間授業の工学院本科の造船科は、終戦後いくたの変遷を経た後、昭和26年(1951) 10月工学院大学専修学校(各種学校制、高校卒業を入学資格とし修業年限2カ年)となった。』『学校教育法に、新制度の実業高校では職業教育すなわち社会に有用な職業に就くための準備を行うことを目標とする教育を行う』と定め、工業教育の目標を昭和26年には、日本工業の建設発展の基幹である中堅技術工員となるべきものに必要な技能・知識・態度を養成することに置いた。

この目標は指導要領の改訂のたびに逐次変わり、昭和35年(1960)10月15日の告示では、“工業の各分野における中堅の技術者に必要な知識と技術を習得させる”ことになって現在に至っている。これは改訂前には作業員の養成であったのを、技術員(Technician)の養成を目指すことに改めたことを示している。(昭和造船史第2巻[10]P640より)

他方、教育の内容に関係すると思われる造船業の技術的実態は急速に変わりつつあった。すなわち、大手造船所ではそれまでの鋲構造が溶接構造に変わり、建造する船のサイズも大きくなっていった。さらに昭和30年代に入ると設計や工作の方法・用具も次第に電子化が進んできた。また、木造船を中心としていた内航船建造造船所も昭和30年代初頭にはほとんどが鋼船建造に変わっていった。従って、工業高校造船科は教育のレベルも内容も大幅に変わるという大きな変化をこの時期に経験したことになる。この変化に直面した現場の教師陣の苦悩は大きかったと思われる。

『この苦悩の中で、“造船教育の資料を収集・作成・研究し、造船教育の充実振興を計ることを目的として昭和34年11月関係工業高校の教職員によって“全国造船教育研究会”が組織された。発足以来教科書の編集計画、学習指導要領や設置基準の改定の提案、研究会、実技講習会の開催などの活動を続け、昭和38年から会誌(年刊)を発行する”に至った。』(「昭和造船史第2巻」第5部「教育機関」第3章「工業高等学校」P640による)
今回の調査対象の中にもこの全国造船教育研究会に関する資料が多く見られた。これについては後述する。

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