資料調査報告(No.2):2010年3月発行「工業高校における造船教育の軌跡」
2.明治維新期以降の造船中堅技術者教育の概観
2.1幕末・維新期の造船技術者教育
この時期の技術者教育を概観すると、対象とする技術者のレベルによって、大きく分けて A)上級技術を対象とするもの、 B)中堅技術者を対象とするもの、 C)作業者を対象とするものの分けられる。
A)に類するものは海軍による軍艦建造のための技術者教育(維新前は幕府によって行われていたが、その後明治新政府によって継承された)と航洋大型鋼船建造を手がける技術者を対象とする政府もしくは民間による教育を包含しており、大学造船教育発足以降は大学教育の形に包摂されていく。一例を挙げれば1867(慶応3年)スタートした幕府の横須賀製鉄所の技術伝習生ならびに職工生徒がある。これは維新後1870(明治3年)明治政府により横須賀海軍工廠内の“こう舎”として引き継がれた。一方、上級技術者対象の大学教育は1880(明13年)工部大学校として発足したが、1886(明19年)横須賀工廠“こう舎”と合併、帝国大学工科大学造船科となり以降は大学教育として発展する。
C)のいわゆる職工教育に相当するものは海軍工廠もしくは大手民間会社の内部教育によるものが大半であった。(一例として三菱重工における工員養成の状況を「三菱重工業株式会社史[1]・第5労務編第5章教養」から要約転記して、添付資料―1[2]に示す。)
これに対して B)の中堅技術者教育は鋼船建造造船所の中堅技術者の教育というニードに対する動きと、主として漁船、内航船など木造船の建造技術者の養成という民間底辺にあるニードに対応する動きの二つの流れがあった。従って教育の形態も様々であった。一般には、文明開化の動きの中にあった前者の流れについて述べた参考資料は多いが(茅原健著「工手学校」[3]など)、民間底辺すなわち地方の群小造船所の動きについて触れたものは少ない。今回の調査で検討した「広島県立木江工業高校60年のあゆみ」[4]は、その数少ない参考資料の一つである。
明治新政府による工業教育は「お雇い外国人」の提案によるものが多いが、中堅技術者教育についても同様で、『石鹸製造技師として来日したゴットフリート・ワグネルの次のような提言にその端を発している。“一国の富を増進するためには工業の発展を図らねばならない。それには低度の工業教育を盛んにして、工業に最も必要な職工長その他の技術者を養成しなければならない”
この提言を受け入れて、1874(明治7年)、東京開成学校内に日本で最初の中程度の技術者を養成する「製作学教場」が設置された。しかし、この教場は2年で頓挫した。その後を受けて九鬼隆一が中心となり東京職工学校が創設された。後の東京工業大学であり、開校は1882(明治15年)11月であった。』(「工手学校」第1章による)(*東京工業大学HP沿革によれば創立は1881(明治14年)5月26日となっている)この学校は、創立時は私立であったと思われるが、後に次第に上昇志向し国立大学となった。
他方、民間の提案によって創立された中間技術者養成学校として、工手学校がある。 これは渡辺洪基によって『専門の技術者を補助する“工手”を養成する学校』として1887(明治20年)、当時の工学会に提案された。この年の10月31日をもって工手学校は創立記念日としている。発起人に加わった14人の中に造船の三好晋六郎がいる。ここに設けられた学科は土木学、機械学、電工学、造家学、造船学、採鉱学、冶金学、製造舎密学の8学科であった。
当初の制度では小学校卒で入学、1年半で卒業、授業は原則午後6時から4時間の夜学であった。後に昭和3年に工学院と改名した。(「工手学校」第1章による)この学校を含め、当時の小学校卒業生に対する教育は「細民の防貧教育」という色彩が強かった。上級技術者に対する教育が西欧に追いつくための国策から出ていたことにくらべると大きな差があったことになる。これらの教育の構図を大まかに示した図を下に示す。
我が国技術者教育の歴史
官・公教育機関 | 民間など | 企業内教育(三菱) | 狙い | |
上級技術者 | 横須賀海軍工廠 ↓ 工部省工学寮工学校(M6) ↓ 工部大学校(M11) ↓ 帝国大学工科大学(M19) |
諸藩留学生 沼津兵学校 ← お抱え外国人 私立大学工学部 |
お抱え外国人 私費留学生 |
キャッチアップ |
中堅技術者 | 東京開成学校内に 「製作学教場」(M7) 2年で没 ↓ 東京職工学校(M15) ↓ (上方志向し 東京工業大学に) ××工業高等学校 ↑ |
(旧幕臣ネットワーク) 工手学校(M20) ↓ 工学院と改名 → 工学院大学に ↑私立攻玉社(M12)→攻玉社工学校東京物理学校講習所(M14) ↓ 東京理科大 |
(財団法人 三菱教育会)に学校を移管、 のち青年学校制度施行に伴い廃止三菱工業学校補習科卒業者は 「下級技術者」とした下級技術者は次第に外部から採用 |
細民の救貧 |
作業者 | (中等学校) 戦後 ↑ ××工業高校 ↑ ××徒弟学校教師と生徒は上方志向 |
見習工養成 (満13才以下、修業5年) ↓ 三菱工業予備学校 本科3年、補修科2年 三菱職工学校 (事業所、時代により種々 |
2.2明治期の教育関連法令
本稿に関係ある明治期の教育関連法令は小学校令、徒弟学校規程、実業学校令などである。それぞれの法規の全文はネット上の文部科学省の「学制百年史:資料編の詔勅・勅語・教育法規等」[5]で容易に見られるが、関連する要点を述べる。
明治初期の教育関係法規は、維新以後何度かの変遷を経ている。大きくは明治5年の文部省布達第13号による「学制」、明治12年の太政官布告第40号による「教育令」の後、明治18年、森有礼が文部大臣に就任後大きく見直しいくつかの教育法令を定めた。
小学校令は明治23年10月7日勅令第250号で定められたもので一応の決着を見た。これによって義務教育の方針が確立し、尋常小学校3または4年、高等小学校2,3または4年と定め、専修科・補習科を付設出来ることを定め、徒弟学校・実習補習学校は小学校の一つの種類と定義づけた。このうち専修科は高等小学校に併置されるもので、農科・工科・商科のうちの1科もしくは数科をおいて実業的な教養を与える課程であった。また、小学校令第1条では小学校の目的を明示し「道徳教育および国民教育の基礎ならびに生活に必須なる普通の知識技能を授ける」と定めている。
徒弟学校という、いかにも明治らしい名前の学校についての規程は「添付資料―2:徒弟学校規程」[6]にその全文を示すが、この規程は今日の行政省庁の出す規程とくらべると、きわめてルーズもしくはフレキシブルである。例えば、入学資格は一応12歳以上すなわち尋常小学校卒以上と決めているが、事情があって、かつ学校長が許可すればそれ以下であっても良いとしている。このような、ある意味では“いい加減な”規程とせざるを得なかったのは、当時の地方の経済状況が堅い規程を受け入れるに耐えなかったからである。
上級技術者教育の目的は欧米先進国技術のキャッチアップであったのに対して、職工クラスに対する教育は「細民の防貧」という今では聞き慣れない表現の「底辺救済」が主目的であった。中堅技術者に対する教育はその両方の目的を含んでいた。形は「防貧」型の小学校をベースとしていたが、卒業生を受け入れる産業界、学ぶ生徒や教える現場教師には新技術習得の熱意が漲っていたというのが実態であろう。 これらの実情に配慮して徒弟学校規程の5年後、明治32年に実業学校令が発布され、中等学校レベルの実業教育がスタートした。 これについても全文を「添付資料―3:実業学校令」[7]に示すが、徒弟学校規程と同じようにフレキシブルな規程である。