資料調査報告(No.2):2010年3月発行「工業高校における造船教育の軌跡」

4.木江工業高校 造船科の歴史4.木江工業高校 造船科の歴史

4.1 木江工業高校創設の夜明け前

この学校は、瀬戸内海中部に位置する広島県大崎上島の木江に大正8年(1919)6月13日設立された造船徒弟学校であるが設立に至る時代背景を考察してみる。 尚、今回調査した資料に基づき、「表―1 旧・木江工業高校造船科年譜」としてまとめたので参照されたい。

1)帆船寄港地としての木江港の繁栄;

北前船西廻り海路が華やかし頃の江戸時代後半期の享保時代(1716~1735)(明治維新を遡ること約130年)の瀬戸内海の海路は大三島と伯方島の間の鼻繰瀬戸(現在の瀬戸内しまなみ海道 大三島橋付近)を通過して東方へ航行していたが、帆船の数が多くなって航海の危険が増すため、大三島西側の木江沖航路が開かれた。

この航路の開発は忠海、三原、尾道港などの商売への順路にも便利なためと帆船の最大の弱点である逆潮のための潮待ちとして木江沖の「木江の洲」が錨泊地として適した海域であった。この帆船木江沖航路の開発が大崎島の海運発展に寄与し多数の零細船主が林立した。明治維新約40年前の文政8年(1825)の大崎上島全体の200石積以上の船の隻数は440隻との記録が残されている。

明治維新(1868) を遡ること15年前の嘉永6年(1853)には、地元矢弓の大手廻船問屋 望月東之助は幕府の命で大崎上島に隣接する小島の石灰岩を太平洋沿岸海路で運搬し、品川台場の建設に貢献している。品川台場第一、二、三台場は嘉永6年8月に起工し翌年の7月に竣工の記録があるが大変な短期工事であったようだ。

尚、余録であるが、廻船問屋望月東之助の子供、四男四女の三男望月圭介(1867-1941)は東京での学業の後、17歳で生家の廻船問屋を手伝うほか、明治31年に衆議院議院に初当選以来13回連続当選した政治家である。又、望月圭介は忠海町沖合の大久野島に毒ガス工場誘致や昭和10年全線開通した国鉄呉線建設にも助力した人物である。地元の生家は現在、資料館として一般公開がされている。

2)民間活力実践の教育;

明治31年に「組合立芸陽海員学校」(後の広島商船高等専門学校)が誕生した。当時、島しょう部及び沿岸部各町村に多数の船員がいたが、明治29年(1896)「船舶職員改正令」が発布され、免状の無い船員は船長としての資格は無くなる。従来の経験からの船頭は船長として認められないことになってしまった。これは地域経済の危機である。

前述の廻船問屋 望月東之助は当時 豊田郡長代理の職でもあり、教育を受けた優秀な船員の必要性から地域の13ヶ町村で学校組合を立ち上げ学校設立を実現させた。設立にあたっては既設の鳥羽商船学校、東京商船大阪分校、神戸海員集合所などを視察している。開校後も度々経営困難があったようで、望月東之助は献身的社会奉仕と郷土愛で協力した。後の造船徒弟学校の創設にも見られるように、教育が地域社会の基盤であるこという風土が醸成されていったものと考察する。

瀬戸内海の小さな島に中等教育として三つの学校が創設されたこともその証であろう。

  • (1)明治31年創設:組合立芸陽海員学校(後の広島商船高等専門学校)
  • (2)大正 8年創設:郡立造船徒弟学校(後の広島県立木江工業高等学校)
  • (3)昭和 2年設立:村立広島県芸陽実科高等女学校(後の広島県立大崎高等学校)

3)木造船の造船事始め;

「図説大崎島造船史」[11]よれば、明治維新(1868)の2年前の安政3年(1856)、木江の地に望月義助が金森造船所(後の望月徹造船所)を創業したのが大崎島木造船業界の第1号である。明治元年(1986)には岸本岩助が木江に小松屋造船所(後の岸本造船所)として木造船業を創業した。

明治20年(1887)には政府は500石積み以上の木造船の建造禁止令を発布しているが、大崎島の造船業は明治26年(1893)に大阪から米沢金造を木江に招き西洋型木造帆船を建造したのが日本型帆船から西洋型帆船への出発であったようである。

文献「第一次世界大戦期広島県に於ける工場化の実態」[12]によると大崎島に於ける木造船造船所の造船所創業数は次の通りであり第一次世界大戦の影響による経済好況を物語っている。

瀬戸内海の大崎島における創業木造船所数;
  • 大正3年(1914)以前:13造船所 ・・・第1次世界大戦開戦の年
  • 大正4年(1915): 2造船所
  • 大正5年(1916) :2造船所
  • 大正6年(1917) :13造船所
  • 大正7年(1918) :0造船所
  • 大正8年(1919) :1造船所
  • 大正9年(1920) 0造船所

当時の様子は「島の海岸のいたるところに“造船所”や“たでば(燥場)”ができ関連産業も盛況を極め戦争成金も続出した」と表現されている。ここで言う関連作業とは「マキハダ」や「船釘」であり全国的な需要を満たしていた。産業ではなかろうが、「おちょろ船」も船乗り仲間で有名な歴史である。

第一次世界大戦ごろの内航船は木造帆船と木造機帆船が主力であり、西洋式木造船の全盛は大正10年頃から昭和30年代前半の機帆船である。なお、木江近辺の鋼船建造造船所の最初は大正8年(1917)に鮴崎に松浦良一が創業した松浦鉄工造船所である。又、在来造船所の木造船から鋼船建造への切換えは老舗の岸本造船所の例で昭和33年(1958)になってからである。

4)第一次世界大戦の日本の景気;

大正3年(1914)7月28日勃発(日本の参戦は8月23日)の第一次世界大戦はヨーロッパを主な戦場とした連合国(英、仏、ロシア、伊、米、日本、他)と同盟国(独、オーストリア・ハンガリー、オスマン帝国、ブルガリア)間の主権争いであるが、日本は当時、日英同盟締結の関係で連合国のメンバーとして参戦した。この大戦は開戦4年後の大正7年(1918)11月11日に終戦。

日本はドイツ権益の中華民国山東省の租借地青島(チンタオ)を陸軍が攻略する一方、ドイツ支配の南洋諸島を海軍が攻略した。大正8年(1919)の大戦講和―パリ講和会議の結果、日本はドイツ支配であった赤道以北の南洋諸島(パラオ、マーシャル諸島など)の信託統治領権と国際連盟の常任理事国を獲得した。

大戦の日本経済への影響は大正4年(1915)央から輸出が急激に増大しはじめた。大正6年(1917)には日本の造船業は空前の造船景気に沸き進水量は米国、英国に次いで世界第3位に達した。これらの工業化により、大正8年(1919)には日本の工業生産額が農業生産額をしのぐほどの工業国となった。

この大戦景気は瀬戸内海の島にも好景気が波及してきた。これは阪神工業地帯の工業活況で九州筑豊炭田の石炭の船舶輸送である。輸送の主役は機帆船であった。 機帆船は明治末期ごろに誕生し、帆船時代から汽船時代の過渡期の船であり昭和30年代まで内航船として活躍した。

機帆船海運の研究資料「戦前の機帆船海運の研究~その生成と存立~」[13]に詳しく述べられている。又、明治から昭和時代まで瀬戸内海の石炭輸送を担った被曳船(蒸気船の曳ボートで200トンクラスの被曳船を6~7隻を曳航するもの)は三菱商事(株)、大阪商船(株)など大手の会社も手がけたが「図説大崎島造船史」P77にこの方式の誕生に関わる興味ある記述がある。「大阪商船株式会社五十年史」[14]には被曳船についての記述は見つからない。

4.2 創立から戦前期

民間活力で出来た・・創立の背景

前述の“学校創立夜明け前”に記述したの時代背景の中、明治元年(1968)創業の岸本造船三代目社長 岸本熊一は後進の技術者養成を急務と考え、大正8年(1919)6月13日当時の文部省令第20号(徒弟学校規定)に基づき広島県豊田郡立の「造船徒弟学校」を設立することを推進した。初代校長は寺西乙三郎氏。『岸本熊一は当初自ら学校長代理を勤める他、教師として造船工の養成に尽力した』という記録が残されている。明治29年伊勢地区に設立された大湊造船徒弟学校につぐ我が国第2番目の古い造船中堅技術者養成機関である。

創立当時の教員原武司氏は、同校史「60年のあゆみ」の中で次のように述べている。
『幕藩時代安芸藩においては倉橋音戸地帯が造船海運業隆盛なりしも、幕末より明治・大正に亘り大崎島地帯がこれに替わり艤装もスクーナーとなり、船体も大型化し、かつ機帆船が導入せられるに至りまして木造船・海運業が隆盛を極めました。』

このような状況の中にあって、同氏は小学校高等科の選択科目として葉たばこ栽培などの農業を教えていたが、男子卒業生がことごとく大工か船員になる状態に鑑み、生徒父兄の要望を入れて、地元船大工棟梁などの協力を得て造船の基本知識教育に切り替えた。これが県視学の知るところとなり、徒弟学校設立につながった。

『時あたかも第1次世界戦乱。我が国においては空前の好景気。当地方でも・・・我も人もと船舶を求めて運送業を競うに至り、実に造船海運業の黄金時代到来、こうして造船海運技術の進歩に即応し斯道教育の新施設を見るに至った。』
これが同校設立当時の周辺状況であった。この状態は長く続いたが、昭和30年代まで地元造船所の建造船は木造船が主流であった。今回の提供品教材に木造船加工用の工具などが多いのもこの辺の事情を物語っている。

学校史「六十年のあゆみ」による創立時の本校の目的は『本校は地元産業界の要望に依り、大正八年六月二十九日の創立に係り、工業学校規程により造船、航空機、家具、其他の工業に従事する。優良堅実にして必要欠くべからざる人物の養成に在り。』又、修業年限組織教授学科目は『本校の修業年限は二カ年にして高等小学校第二学年卒業又は同等以上を以って入学資格とし製図、木工の二学科に別に製図科にては艦船、航空機、家具設計、製図に関する学術を授け木工科にては艦船、航空機、家具の工作に関する学術を授く。教授科目は両科共修身、公民科、国語、数学、理化、英語、図画、造船学、機関学、法規、航空学、体操、実習等にして其の課程及時数は次表の如し。』

学校教育の開始は大正8年(1919)6月29日第一期生30名で、当時の小学校を借用して入学式を挙行し、授業は当面木江警察署二階をの借用で開始された。1ヶ年後に小学校校舎の払い下げを請け校舎を移転した。第1回卒業式は大正10年(1921)3月23日に挙行された。第1回卒業生の卒業記念写真が「六十年のあゆみ」に掲載されているが、生徒全員は羽織・袴の和服姿に時代を思をはせる。

就職は海軍・大手企業におよぶ・・教師の熱心な指導の成果

しかし、同校60年史「戦前編」によれば大正8年~昭和6年の12年間の卒業生の就職先は、卒業生総数236名で、 海軍・官庁、大手会社など:136名 自営ほか:72名 となっている。この数字は教員の熱心な指導と就職先開拓の努力の成果である。その背後には学校を工業学校として独立させたいという願いがあった。その先頭に立ったのは当時の校長宗藤氏であり、大阪高等工業出身などの熱心な教員たちがその後にいたと記されている。

教育の気風は自由であり、試験時には教科書・ノート持ち込み可であったという。かなりレベルの高い指導が行われていた様子は提供資料の英文の技術雑誌、参考書などが教員の参考書のなかにあったことからも伺える。また、当時としては珍しい8人漕ぎのボートレースが行われるなどのびやかな雰囲気もあった。昭和9年(1934)には念願かなって工業学校として独立し、併せて航空科が設置された。

また、大正10年から平成9年3月卒業の76回の内、造船科卒業生の総数は2,831名であるが各卒業年毎の推移は 「図―2 木江工業高校造船科卒業生徒数の推移」 を参照願いたい。これによると、学校の栄枯盛衰も各時代の産業界を色濃く反映をしていることが判る。

大正10年から平成9年3月卒業の76回期全卒業生数の内訳;
造船科卒業 2,831名
航空機科卒業 276名
機械科卒業 1,373名
卒業生総数 4,480名

 

4.3 戦中期

教育目標も戦争対応へ

昭和9年(1934)3月6日には校名「広島県立木江造船学校」に改称。入学資格は小学校高等科第二学年卒業、修業年限を三カ年の甲種工業学校に昇格した。又、教科も従来の製図科と木工科を廃止して、造船分科と航空機分科を設置した。航空機科は太平洋戦争終結の昭和20年10月1日を以て機械科に変更し、航空機科生徒は機械科に転科。 当時の教育目標は[智」「徳」「耐」をそなへ時代の国策に即応出来る人間性を育成すると同時に船舶、航空機の設計、製作、建造に関する技術者の養成にある]となっている。

同校60年史「戦中編」による特記事項は次の通り:

日本が戦時体制に邁進する時代となった;

昭和13年10月8日 呉鎮守府参謀長副官が学校を視察と記録されている。
昭和14年1月 第三学年は三学期より就職予定先で勤労奉仕に出動。
昭和15年11月 修学旅行禁止令。
昭和16年4月16日 制服改正、戦闘帽、国民服となる。
昭和16年12月8日 大東亜戦争勃発、全校生徒武装して木江町神社に戦勝祈願。
昭和17年1月上旬 学徒動員令公布。
昭和17年11月 明治神宮国民錬成大会に県代表として出場。
昭和18年7月 15日 校長宗藤両而氏が徳島工業高校造船科新設に伴い転出。
昭和18年7月 16日 校名を広島県立工業高校に改定。
昭和19年4月 学徒勤労動員開始
造船科は日立造船(株)因島工場へ、
航空科は第十一海軍航空廠へ。

4.4 戦後期と閉科

戦後の造船界を支える全国版優秀校に・・教科書作りに教師陣の努力:

第二次世界大戦敗戦後の学制改革で、工業学校は工業高等学校となった。そして教育の目的も昭和26年(1951)の『日本工業の建設・発展の基幹である中堅技術工員に必要な技能・知識・態度を養成する』から昭和35年(1960)10月には『工業の各分野における中堅技術者に必要な知識と技術を習得させる』と変わった。技能者養成から技術者養成へと変わったのである。

しかも卒業後の就職先になるであろう日本の大手造船所の建造船や建造法は大きく変わりつつあった。この変化に戸惑ったのは教育を行う第1線の先生方だったであろう。収集した資料の中に、教材として作られたプリントの残り、また講義の参考とされた原資料の袋などが多くあったのは先生方のご苦労の跡ではなかろうか。
これらの先生方の努力により木江工業高校は時代に即した優秀な人材を輩出し、鋼船建造に転換した木江地区の地元造船所の発展に大きく寄与すると共に、世界一の建造量を誇りつつあった大手造船会社、また官庁・船級協会などにもトップクラスの中堅技術者を送り込んだ。また、上級の大学などに進学する者、就職後上級校に進む者なども多く、全国版工業高校の様子を見せていた。

造船不況は回復不能な打撃、ついに造船科廃止:

しかし、昭和40年代後半以降、造船不況という経済的変化や、高学歴指向などの社会的変化の影響をも受け、大手造船会社における工業高校卒業者の採用は次第になくなり、工業高校における造船教育はその存立基盤を失っていった。木江工業高校も大崎高校との合併→大崎海星高校と身をよじるような変遷の末、ついに平成10年(1998)造船科は廃止やむなきに至った。

同校60年史「戦後編」による特記事項は次の通り;
昭和20年4月1日 受験資格を国民学校令に基づく国民学校初等科卒に変更し、修業年限を五ヶ年とする。
昭和20年9月 奉安殿撤去。
昭和20年12月 GHQの命により修身、国史、地理の授業中止。
昭和22年3月31日 国民学校令、中等学校令に師範学校令、大学令廃止。
昭和22年4月1日 六・三・三制施行。
昭和23年5月8日 広島県告示第二一五号:学制改革により高等学校に昇格し、広島県木江工業高等学校と称す。新制中学校併設。
昭和23年9月1日 広島県告示第三六三号:中野存立芸陽高等学校を吸収して校名を甲陽高等学校と改称。造船科,機械科,普通科,生活科の4科と定時制を置き男女共学実施。
昭和24年4月1日 学制改革に伴う学区制実施により竹原高校造船科生徒22名を木江の造船科に転入、同時に木江の機械科は竹原高校へ移管。
昭和24年4月30日 広島県下高等学校再編成により、甲陽高等学校を母体として広島県大崎高等学校が設立、全日制(普通科,造船科,生活科)定時制(普通科)を置く。
昭和24年7月下旬 夏季工場実習開始
(日立造船=向島,因島,桜島の各工場、三菱重工=広島造船所)。
昭和28年4月14日 広島県皆実高等学校造船科を吸収、造船科定員80名。
昭和29年5月1日 大阪大学教授笹島秀雄先生来校、船舶の抵抗と水槽試験について講演。
昭和30年2月17日 木江町借上げ民有地に造船科実習工場鉄骨二階建一棟新築。
昭和30年9月上旬 学習指導要領改訂=本校から代表参加。
昭和31年1月6日 木江町借上げ民有地に造船科校舎木造二階建一棟新築。
昭和33年4月7日 開校以来初の造船科女生徒七名入学。
昭和35年5月7日 創立40年記念式典、造船科理科特別教室の落成式挙行。
昭和36年8月7/9日 「全国造船教育研究会」第3回総会・研究議会を本校で開催。
機械科一学級定員50名を新設。
昭和38年4月1日 「全国造船教育研究会」第7回総会・研究議会を本校で開催。
教科書「船舶応用力学」の草案執筆担当校となる。
昭和40年8月3日 校名を広島県立大崎高等学校と改称。
昭和43年10月1日 広島県立大崎高等学校の工業科を分離独立させて広島県立木江工業高等学校となる。
昭和44年4月1日 創立50年記念式典、並びに講舎落成式を挙行。
昭和44年6月8日 創立60年記念式典を挙行。記念庭園石碑の銘“石の上にも三年”
昭和53年11月26日 創立70年記念式典を挙行。
昭和63年11月6日 機械科・造船科2学科1学級(定員40名)となり、くくり募集を実施する。
平成8年4月1日 大崎高等学校・木江工業高等学校を統合し、新校名を広島県立海星高等学校と定める。
平成10年4月1日 機械科・造船科の募集停止し総合学科を設置

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