資料調査報告(No.12) : 2014年6月発行「フランス人の見た幕末・明治初期の和船」

No.14 ワジマ候(註14-1)の紋章のあるガレー軍船 1868年 大阪の川にて計測

軍船(御座船(ござぶね))は大砲を欠いたガレー船で、推進力は人力に頼り、数世紀間、海上の戦闘にのみ使用されて来た。 これ等の御座船が内海の平水面に於ける闘いの栄光を持っているのは確かだが、御座船は廃れつつあり、細部も含めて過去の記録として保存するのみである。

御座船は入念に建造されており、非常に幅の広い外板(棚板(たないた))は端から端まで一体であり、無秩序に継ぎ合わされるのではなく、丁寧に()いで釘止めしている。 棚板同士の接合部は曲り材の様なもので補強され、釘は整列し、釘の頭は埋め木され銅版で覆われている。

船幅一杯にとられた主居住区は、美しく装飾された6部屋で構成されるが、部屋の仕切り壁は全て引戸である。 船首と船尾に設けられた船室は固定式だが装飾は少ない。 床は倉庫への交通の為に取外し式となっている。 船室には、不用時には取外し可能な2個のキャプスタン(轆轤)、漆喰製の竈、備品用の棚が入っている。

船倉は5個の区画に区切られているが、面積は127㎡あり、米で満たされている。 米は大名の歳入のベースで、家臣への給与(俸禄)にも用いられる。 船倉の積載重量は80名の乗組員の30日分の食料と15日分の水として、約27トンである。

居住区の側面はすき間がある垣立(かきたつ)で、外気からの遮蔽は青い厚い布地の幕のみで、幕には大名の紋章が白く描かれている。 この目立った部分の紋は、帆に描いた濃い青色の紋章と同様に暗闇でも目に付く。 紋章(紋)はワジマ公所有の船であることを示している。

外側は多くの錆び付いた銅版で飾られ(図中に点線で示す)、ある部分は図示の様に丹念に塗装されている。 帆柱は一本のみの角材であり、帆揚げ用の動索(身繩)用の滑車(蝉)を支える堅木製部材(蝉挟み)が付いている。 支索は丸く巻かずに無造作に置いてある。 帆は前述の“ふね”の場合と同様である。船尾へのはらみ綱(両方綱)は簡単である。

櫓は側面の回廊の中(垣立上棚(うわだな)の間)に配置され、船体に固着された梁(艪床(ろどこ))の上に配置される。 回廊の棚板側には通行用の歩み板がおかれている。 櫓の数は28本(両舷)で、4組のグループに分かれている、各櫓に漕ぎ手1人のみの場合の船速は2.5ノット、漕ぎ手56人(各櫓に2人配置)の場合は3.2ノット程度、船の長さ一杯に櫓を配置した場合は3.6ノットに達する。

乗組員は約20名程度で、最大限の兵士を乗せた場合には乗員総数は約250名となる。 これらの船は大名の所有で、1868年には古風で風変わりな武器を有していた。 即ち、良く鍛えられた鋼製の様々な刀剣、多くは両手で扱う身の丈大の長さの刀、槍や矛、複雑な鉤、帯状の木や竹で構成された2mの弓、その矢は1m程度であった。 これ等風変わりな武具は有効な火器の採用により廃れたが、固い兜、鎧、胸甲、腕甲、腿甲や滑稽な渋面の仮面等も同様であった。

1868年にはこの様なガレー船は多数存在した。 Armand.Parisは4個の艦隊を目撃したが、その内の一つは阿波候所属のもので、30隻の船と3000名の乗員から成り、多くの用役船を随伴していた。 阿波候のガレー船は図示のものより大きく、帆柱は外し、二列に整列した20隻の船で曳航され、漕ぎ手達も軍船上の人達も銅鑼の拍子に合わせて歌っていた。

 

保存委員会 註14-1

ワジマは宇和島(UWAJIMA)をA.Parisが誤聴か誤記したものとも考えられるが、宇和島藩の帆印は白地に黒三筋、船印は白地に赤の九曜紋である。 帆印からみると熊本藩の可能性があるが、正しくは紺地に白の九曜、船印は白地に紺の二つ引きである。 いずれにしても帆印、船印については疑問が残る。

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