資料調査報告(No.12) : 2014年6月発行「フランス人の見た幕末・明治初期の和船」

No.16 北の船 1869年 函館で計測

北の船は南の船と同等な原理に従って造られており、内容は船の板図に示された詳細を参照するしかない。 北の船はより小型で、帆柱は比率からして1/5以上短い。 帆柱は四角の角材で、側面は0.8mで長さは25m、根元だけは割れを防ぐ為にタガを嵌めている。

帆はやはり繋ぎ合わされた帆布で、3枚のハカイに大別されている。 帆装は同様だが、船尾方向へのはらみ綱(両方綱)は普通とらない。 帆脚索(帆足)、又は斑模様に織られたジグザグに張られた綱(大渡し)に留められる。 船首の帆柱は重要なものではなく、出航の際の変針の為に帆を揚げるのみである。

これ等の船には多くの荷が積まれ、甲板はしばしば水面下0.3mとなり、回廊の一部は水に浸かる。 このことが船室の堅牢さと船首側昇降口(伝馬込(てんまこみ))の閉鎖の理由である。
主要目は一般配置図を参照されたい。

これ等の船は良く走るが撓み易く、積載量は150トン(千石)を超えない。(註16-1)
内海の船よりは平底で、主肋材(腰当船梁(こしあてふなばり))は中央にあり、水線面の最大幅はかなり船首寄りにある。(註16-2)
丸い船型は水を掻き分けるよりも、むしろ水上を滑る様に出来ている。 船尾の側板は垂直で、且つ船首が突出ているのは、船首より十分に離れた位置にある一枚帆とバランスする為にドリフト・センターが十分に船尾側にあることを示している。

四爪錨(よつめいかり)は強力で長い錨幹((さお))が付いている。ボート(伝馬船(てんません))は甲板を横切って置かれている。 乗組員は帆の広さにもかかわらず10~12人に過ぎない。 船長は見分けがつかない。 帆と同様に船全体も、我々の中世の船の仕様に類似している。

船室の高さは4m20、木と大きな竹で構築され、その茅葺屋根(常苫(じょうどま))は極めて厚く、荒く編まれた茅で覆ってある。 船室は47m2で、FIG7 に示す様な室内画で飾られ、木工細工は非常に入念である。 船室の両側には高さ3.50mの強固な格子があり(蛇腹垣(じゃばらがき))、相互に結び付られた竹で出来ており、船室の強化と屋根に水が懸るのを防いでいる。

様々な断面図から十分に正確な配置が判る。 船の板図からも判る様に TT (下船梁(したふなばり))が船の強化に役立っていることが判る。

日本人は平地の上で船首を海に向けて船を建造する。 進水するには FIG14 の様に、地面を0.4M 掘下げ、ローラー装置と板を海まで置く。 FIG13 に示す装置を船梁の端に取付ける、FIG12 の様に8枚の複滑車と8台のキャプスタンを使用する。 船が敷石を張った岸壁の端まで来ると、15度の傾斜の傾斜板上を滑らす為に8個の装置の内の6個が固定され、少しずつ緩めて移動中の船を支える。 船の陸揚げはしばしば行われるが、岸壁の端を乗越える為に FIG11 に示す2本の帯ab及びcdと、6個のキャプスタンを使用する。 潜水夫によって置かれた大きな板ghの上に船底を置き、かなりの労力で船は船台に敷かれたローラー上に移動される。

保存委員会 註16-1

ここで取り上げられている「北の船」がいわゆる北前船(きたまえぶね)であるかどうかは定かではないが、実際には千石を超える北前船も少なくなかった。

保存委員会 註 16-2

弁才船(べざいせん)積石数(つみこくすう)を算出する方法の一つに大工間尺(だいくけんじゃく)がある。 これは、航長(かわらちょう)、肩幅(腰当船梁(こしあてふなばり)位置の型幅)及び型深((かわら)上面から腰当船梁の上面までの距離)を尺で表して掛け合わせ、10で割った値をその船の積石数とする考え方である。(参考資料4参照)

積石数が諸公課賦課の算定に使用されていた為、最大幅を船首よりにして実際の積載量より小さな積石数となるようにし、経済的有利を意図したのが北前船の一つの特徴と言われている。

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