「籾山模型の魅力」 ~ 創業100年 父子二代で生み出した珠玉の艦船模型 ~

「籾山模型の魅力」 ~ 12. 戦後の籾山船舶模型製作所

船の科学館 飯沼一雄

籾山艦船模型製作所は、戦時下においては物資困窮の中で、海軍省からの受注である識別用の洋上模型の大量製作に追われ、終戦を迎えることになったようだ。

戦後は、作次郎氏に代わって長男 蔵太郎氏の出番であった。 蔵太郎氏は、大正10年(1921)3月30日生まれ、父をはじめ模型職人に囲まれて幼少期を過ごし、製作所を継ぐため旧制官立東京高等工芸学校(現:千葉大学工学部)で木材工芸を専攻、戦時下の繰上げで昭和18年(1943)9月に卒業した。 その後は海軍を志願、翌年には海軍技術少尉となって終戦まで横須賀海軍工廠に勤務したという。

[写真49] 「籾山船舶模型製作所」の籾山蔵太郎氏

終戦後は、昭和21年(1946)1月より蔵太郎氏が代表を務めることになり、社名も籾山艦船模型製作所から籾山船舶模型製作所に改めた。

蔵太郎氏から直接お話を伺ったとき、「戦後は昭和24年より戦時賠償船の模型製作から再開、キャッチャーボートが最初だったと思う」と語られていた。

そうした戦後復興期の厳しさを乗り越えた昭和35年(1960)7月19日、作次郎氏が73歳で逝去される。 以降、蔵太郎氏が1人で籾山船舶模型製作所をきりもりしなければならなくなった。 蔵太郎氏39歳の時である。

戦後は、艦艇模型の製作注文もまったくなく、さらに大型で高価な竣工模型を力を入れて作ろうなどという造船会社や海運会社も少なくなったのに反して、ライバル会社は多数出現、競争の激化と質の低下が進む中で、企業としての業績は必ずしも良好というわけにはいかなかったことであろう。

客船、貨物船、タンカー、バラ積み船、コンテナ船等、どんなものでも作らなければいけなくなったが、限られた時間と予算の中で戦前のような腰をすえた大型で精緻な模型作りは望むべくも無くなった。 培った伝統の技を持つ職人たちも高齢化が進み、戦後の模型作りは不本意なことが多かったに相違ない。

そうした中、昭和40年代に入ると新たに東京に海事博物館建設の話が持ち上がった。 籾山船舶模型製作所の真骨頂が発揮できる機会が再び訪れたのである。

ページの一番上へ