「籾山模型の魅力」 ~ 創業100年 父子二代で生み出した珠玉の艦船模型 ~

「籾山模型の魅力」 ~ 6. 戦艦“榛名”“伊勢”“加賀”の竣工模型

船の科学館 飯沼一雄

1906年(明治39)12月に英国で、世界最初の単一巨砲を搭載し主機に蒸気タービンを採用した画期的な戦艦“ドレッドノート”Dreadnought (常備排水量18,110トン)が竣工すると、従来の戦艦は一夜にして旧式化してしまった。

英国は、さらに続けて高速性を付与した巡洋戦艦“インヴィンシブル”Invincible級の建造を行い、最新鋭艦のみならず計画建造中の艦までもが旧式化してしまう。 こうした飛躍的な建艦技術の革新に、当時のわが国では対抗しうる主力艦の設計・建造はとうてい不可能と判断、やむなく英国ヴィッカース社に新戦艦の設計・建造を委ね、その建艦技術の移転を計ることで革新的な技術力の向上を図ろうと考えた。 これが、巡洋戦艦金剛級4隻の建造の経緯である。

世界で初めて45口径14インチ(35.6センチ)主砲を採用、蒸気タービン機関を搭載した新巡洋戦艦として明治43(1910)10月に最終的な設計案が取りまとめられ、1番艦“金剛”(常備排水量26,330トン)が明治44年(1911)1月に英国ヴィッカース社バロー・イン・ファーネス工場で起工、明治45年(1912)5月進水、大正2年(1913)11月竣工した。

2番艦以降は、技術移転を目的に国内で建造されることになり、2番艦“比叡”が横須賀工廠で約10ヵ月遅れの明治44年(1911)11月起工、大正元年(1912)11月進水、大正3年(1914)8月竣工した。
続く、3、4番艦は、さらに技術移転を普及拡大するため、“平戸”と“矢矧”の例に準じて、3番艦“榛名”は川崎造船所に発注して明治45年(1912)3月16日に起工、4番艦“霧島”は三菱長崎造船所に発注して僅か1日違いの明治45年(1912)3月17日に起工する。

<表03> 戦艦金剛級4隻の起工、進水、竣工年月日

こうして川崎造船所と三菱長崎造船所は、最新鋭の主力戦艦の初の民間受注に社運を賭けて、しのぎを削り建造競争を繰り広げることになるのである。 建造競争は、三菱長崎造船所の“霧島”が大正2年(1913)12月1日に進水したのに対して、潮位の関係もあって川崎造船所の“榛名”の進水は約2週間遅れの同年12月14日となった。

さらに艤装工事中に、“榛名”のブラウン・カーチス式蒸気タービンが試験で遅れを生じ、これを苦にして造機部長が自殺するという異常事態に発展、事態を憂慮した海軍側の仲裁もあって、激化した建艦競争をいさめて両艦の竣工はそろって大正4年(1915)4月19日となった。

川崎造船所は、民間造船所初の主力戦艦建造受注を適切に遂行し将来に繋げる為、建艦に先立って多くの技術者を渡英させると共に、大型の船台の構築、最新式の独製ガントリー・クレーンの新設、150トン型フローティング・クレーンの新規購入等、設備の一新を図って工場も拡張した。 同所が、いかに執念をもって本艦の建造に取り組んだかということが知れよう。
そうした意味で、社運を賭けた建造事業に、竣工模型の果たす役割も大きな意味を持つことになったのである。

<表04> は、製作が確認されている巡洋戦艦“榛名”の模型で、銀製模型3隻、通常の木製模型2隻の合計5隻もの模型が製作されており、“平戸”が銀製模型1隻を含む3隻だったものを大きく上回る。

<表04> 籾山艦船模型製作所が製作した戦艦“榛名”の模型

まず、1作目の“榛名”縮尺1/192の銀製模型を見てみよう、大正2年(1913)12月製作といえば、“榛名”の進水式(同月14日)が大正天皇の名代として伏見宮貞愛(さだなる)親王を迎えて挙行された月であり、前月には1番艦“金剛”が英国で竣工したばかりである。

模型は、全長214.6メートルの本艦を1/192に精密に縮小した、全長1.1メートルの銀製模型の大作である。 しかし、仔細に見ると3本の煙突がいずれも低く竣工時とは異なっているのが分かる。 1番艦の“金剛”が英国で竣工した際、1番煙突が艦橋に近接してその煤煙が前に廻り悪影響を及ぼすことから、後に1番煙突を高くする改装を行い、“榛名”も設計時に同様の改正(位置も若干後方にずらしている)を行う。 しかし、模型製作を急がせたため、本模型は“金剛”の竣工時に準じてしまったのであろう。

他にも、主砲塔の前部形状や天蓋上に水雷艇撃退用の7.6センチ単装砲を装備しているのが実艦と異なる、こうしたことは進水式に竣工模型をなんとしても間に合わせようと無理をした結果に他ならない。
このように進水時点で、これほど立派な竣工模型を製作し献上したのは川崎造船所における本艦建造の重要性を示すものである。

[写真14] 戦艦“榛名”初の銀製竣工模型

2作目は、大正3年(1914)11月に完成した銀製模型で、翌年4月の竣工を間近に控え、一番煙突の改正も折り込まれている。

[写真15] 戦艦“榛名”の第2作目の銀製竣工模型

3作目は、続く12月に完成した銀製竣工模型で砲塔天蓋の単装砲は外され、特に注目すべきは飾足が初めて川崎造船所の社号を掘り込んだ鋳物製になっている点である。

[写真16] 戦艦“榛名”の第3作目の銀製竣工模型

さらに同時期に完成した同じく4作目となる木製竣工模型のほうは、重量があるためか飾足が社号入りの4本になっている。 さらに5作目は4作目同様木製だが飾足が2本となり、より小さな模型と類推されるが、竣工翌年の大正5年に八代六郎海軍中将の注文で製作され東宮家に献上されたものといわれる。 以上が、巡洋戦艦“榛名”の竣工模型5隻の概要である。

[写真17] 戦艦“榛名”の第4作目の木製竣工模型

“榛名”に続いて、川崎造船所が受注した主力艦が戦艦“伊勢”(常備排水量31,260トン)である。 本艦は、金剛級建造の実績を踏まえて間髪をいれず建造した常備排水量30,600トンの戦艦“扶桑”(建造:呉工廠)“山城”(建造:横須賀工廠)に続く新戦艦2艦の内の1隻で、民間造船所の技術習熟の為、戦艦“日向”(建造:三菱長崎造船所)と共に建造が行われたものである。 予算の関係から起工が“山城”より1年半遅れたため、設計を改め新たな艦型へと進化した。

戦艦“伊勢”は、大正4年(1915)5月10日起工、大正5年(1916)11月12日東伏見宮依仁(よりひと)親王をお迎えして進水、大正6年(1917)12月15日竣工している。

ちなみに、戦艦“日向”の方は、大正4年(1915)5月6日起工、大正6年(1917)1月27日進水、大正7年(1918)4月30日竣工した。
戦艦“伊勢”の模型は <表05> の如く銀製竣工模型2隻及び通常の木製模型1隻(戦艦“日向”)の合計3隻が製作されている。

<表05> 籾山艦船模型製作所が製作した戦艦“伊勢”及び“加賀”の模型

まず1作目の戦艦“伊勢”縮尺1/192の銀製竣工模型 [写真18] を見てみよう、極めて完成度の高い細密な作品である。本銀製模型は大正5年(1916)10月に完成しており、翌11月12日の進水式に際して、大正天皇の名代として来られた依仁親王への献上を意図したことは間違いない。

[写真18] 戦艦“伊勢”の第1作目の銀製竣工模型

2作目の戦艦“伊勢”の銀製竣工模型は、1作目同様に縮尺1/192で、竣工翌年の大正7年(1918)6月に完成し、川崎造船所に納品されている。 この2作の銀製竣工模型は非常に酷似しているが、仔細に見ると舵面や空中線等に微妙な違いが発見でき、別作品であり2隻製作されたことが確認できる。

この戦艦“伊勢”の銀製竣工模型は、近年になって米国より返還を受けて建造所である川崎重工業が所有しており、もう1隻の“伊勢”銀製模型についても、日本のコレクターが個人で所有しており、戦艦“伊勢”の銀製竣工模型については2隻とも国内に残されていることが判明している。 いずれも非公開ではあるが、大きな損傷も無く、良い状態で保存されていることは非常に喜ばしい。

[写真19] 戦艦“伊勢”の第2作目の銀製竣工模型
[写真20] 個人で所有する“伊勢”銀製竣工模型01
[写真21] 個人で所有する“伊勢”銀製竣工模型02

3作目の木製の模型は、同型で三菱長崎造船所建造の戦艦“日向”とも言われるが、舷側の防雷網を外した後の姿として再現されており竣工模型とは異なる。 海軍省の発注でメキシコ大統領に贈呈されたといわれる。

この、“伊勢”“日向”に続き、八八艦隊を構成する新高速戦艦として計画されたのが、世界初の16インチ砲(45口径41センチ砲)×8門を搭載する戦艦“長門”“陸奥”(常備排水量33,800トン)である。

“長門”は、大正6年(1917)8月28日に呉工廠にて起工、大正8年(1919)11月9日進水、大正9年(1920)11月25日に竣工している。 一方“陸奥”は、大正7年(1918)6月1日に横須賀工廠で起工、大正9年(1920)9月11日進水、大正10年(1921)11月22日に竣工する。

この間に、第一次世界大戦が大正7年(1918)11月終焉となり、一転船の需要が急激に縮小し、海運界・造船界は共に苦境に立たされ、世界的な不況に見舞われた。
こうした状況下に川崎造船所は、長門級に続く16インチ砲(45口径41センチ砲)を10門搭載する排水量40,000トン級の新戦艦“加賀”の建造を大正8年(1919)1月に受注する。

本艦は、大正9年(1920)7月19日に起工、大正10年(1921)11月17日には伏見宮博恭(ひろやす)王をお迎えして進水式が執り行われ、設計責任者であった平賀 譲中将は、「本艦は、高速力戦艦にして速力23ノットと発表しておりますが、実は“長門”同様に26.5ノットの速力で、91,000馬力あり…」と本艦の詳細な説明をされたという、よほどの自信作だったのであろう。
また、同時に三菱長崎造船所も戦艦“土佐”の建造を受注、同じく大正9年(1920)2月16日起工、大正10年(1921)12月18日進水した。

しかし、こうした新型戦艦の建艦競争はわが国のみならず各国の軍事費を増大させ、このままでは各国の財政が破綻するのではとの懸念が高まり、本艦建造中の大正11年(1922)に主要5カ国がワシントンに集まり軍縮会議が開催されることになった。 この会議の結果、建艦競争を一時取り止め、各国の保有量を比率で定めることになったのである。
軍縮条約により、川崎造船所で建造中の戦艦“加賀”及び三菱長崎造船所で建造中の戦艦“土佐”は、共に建造中止が決定された。

籾山製の戦艦“加賀”の縮尺1/192の見事な銀製竣工模型は、大正11年(1922)1月に完成し、実艦が未成のまま2月に海軍省に引き渡された。
この模型は、昭和元年(1926)には一般に公開されたとのことであるが、この名実共に籾山の銀製模型の最高傑作とも言うべき完成度の高い精密な竣工模型は、現在ではその行方はようとして知れない。

[写真22] 戦艦“加賀”の銀製竣工模型

ページの一番上へ