「籾山模型の魅力」 ~ 創業100年 父子二代で生み出した珠玉の艦船模型 ~

「籾山模型の魅力」 ~ 3. 作次郎氏の幼年期

船の科学館 飯沼一雄

作次郎氏は、父 邦李氏が海軍に勤め始めた明治19年(1886)の12月4日、8人兄弟の次男として東京 麹町に生まれた。 父が海軍に所属していたこともあり、幼年期から船舶特に海軍の艦艇に強い興味を示し、軍艦の写真や絵葉書を集め、そのうちに軍艦の模型を自分で組み立てる楽しみを覚えるようになったという。

作次郎氏自身も語っているが、模型製作者としての原点は、幼少からの「軍艦への限りない憧憬」と、その姿を手元で見ることの出来る「軍艦写真及び絵葉書のコレクション」にあったと見て間違いないであろう。その絵葉書や写真のコレクション数は確認できたものだけでも1,600点近くにも及ぶ。

また、当時は毎日のように靖國神社の「遊就館」に通い、展示ケースに収められた艦艇模型を日がな一日眺めるのを日課にしていたとのことである。従って、自分の師匠は、この「遊就館」に陳列されていた船舶模型だったとまで語っている。

ちなみに、「遊就館」は、幕末維新の戦没者ゆかりの品を展示する軍事博物館として明治15年(1882)2月開館、しかし大正12年(1923)9月の関東大震災で大破、昭和7年(1932)再建したものの昭和20年(1945)5月の東京大空襲で被害を受け、昭和61年(1986)ようやく復興再開したものである。
この「遊就館」で船の模型を飽くことなく見ていた少年は、模型製作者への道を歩むことになるのである。

「20歳を少し過ぎた頃だったでしょうか、いたずらに作りました軍艦“薩摩”の模型を、海軍の方に見られました。 こいつはうまい、ひとつ献上したらどうかと勧められ、東郷元帥の賛辞もいただきました。 陛下に取り次いでくださった福田馬之助中将が、川崎造船所の模型を引き受けろ、といわれ、こんなきっかけで趣味が本職になってしまいました」との逸話が、『三菱造船』1953年5月号掲載の「モデル・シップと40年」記事中に記されている。

併せて東郷平八郎大将揮毫の扁額が置かれた明治天皇献上の戦艦“薩摩”の縮尺1/300模型の写真が掲載されているが、東郷大将の書は「啓発技能 庚戌(かのえいぬ/こうじゅつ=1910年)春為 籾山氏 東郷書」と書かれており、明治43年(1910)春に書かれたことを示している。

[写真04] 東郷大将の扁額と戦艦“薩摩”模型

東郷大将といえば、日本海海戦で勝利した連合艦隊司令長官としてつとに有名であり、同時期にも不忍池で見事な滑空飛行を披露したフランス人のル・プリウール海軍中尉に送った「其疾如風(其の疾きこと風の如し)己酉(つちのととり/きゆう=1909年)夏為 ルー・プリエー氏 東郷書」という同一形式の扁額も残されている。 これと比較しても、本扁額が東郷大将の真筆であり年紀も間違いなく、明治43年(1910)春といえば作次郎氏が23歳の時で回想話とも一致する。

しかし、この話には少しつじつまが合わないところもある。
戦艦“薩摩”(常備排水量19,372トン)は、わが国で初めて設計・建造された記念すべき主力艦で、明治38年(1905)5月15日横須賀工廠で起工、明治39年(1906)11月15日進水、明治43年(1910)3月25日に竣工したもので、竣工当時は世界最大の戦艦であった。そして、明治43年(1910)3月といえば作次郎氏が同艦模型を明治天皇に献上した正にその時である。

当時、いくら父がかつて海軍に所属していたとはいえ、国産初の最新鋭戦艦の図面や写真資料が実艦の竣工前に入手でき、さらに竣工と同時に模型を完成させるなどということが出来たのであろうか…。 そこには何らかの事情が隠されていたと思えてならない。

ここに、「陛下に取り次いでくださった福田中将」として登場する福田馬之助海軍中将は、安政3年(1856)10月、尾張徳川家の家臣 福田頼実(よりざね)の嫡子として美濃国(岐阜県)に生まれ、東京大学工科大学造船科卒業後、海軍に進み、明治34年(1901)造船総監、明治40年(1907)技術将校として最高位である造船中将に上り詰めたエリート軍人である。 戦艦“薩摩”建造当時は、建艦の総責任者とも言うべき立場に居たことになり、“薩摩”模型の製作も福田中将が事前に資料提供して、籾山氏に作らせたとも考えられる。 あるいは、わが国初の建造で世界最大の戦艦として竣工した“薩摩”を福田中将自身、明治天皇に奏上するため竣工模型を必要としたのかもしれない。 たしかに、作次郎氏の絵葉書コレクションを見ると“薩摩”の絵葉書多数が含まれ、明治39年(1906)11月の進水式にも列席していると思われ、その後も横須賀を頻繁に訪れていることが分かる。

邦李氏と福田中将の関係を調べると、両者は同じ徳川の家臣で出身地も近く同じ海軍に在籍、とするとその因縁や絆は浅からぬものがあったと推察できる。 ところが、東大卒でエリートの福田氏は造船中将に昇格、2歳年下の邦李氏は海軍を追われ民間会社に下野することになる。

さらに、自らの影響もあって軍艦好きとなった息子が模型作りで類まれな才能を発揮している、父として息子のこの才能を活かしたい。そこで、知遇のある福田中将と協力し合ったとすれば、明治43年(1910)春の「明治天皇への模型献上」話の筋書きも見えてくる。

なお、同じ年に三越で開催された「第2回みつこし児童博覧会」でも、軍艦模型を出品し見事銀賞に輝いている。
明治天皇に自作の模型が献上されたことについて、「仰天した」と作次郎氏は語っているが、これを契機に海軍艦艇の竣工模型や一般商船及び教育用模型の製作を生業とする模型製作者の道を歩み始めることになるのである。

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