「籾山模型の魅力」 ~ 創業100年 父子二代で生み出した珠玉の艦船模型 ~
「籾山模型の魅力」 ~ 9. 日本郵船を中心とした戦前の客船模型
船の科学館 飯沼一雄
日本郵船に所属する船舶としては、籾山艦船模型製作所創業以前に竣工している、“西京丸”“丹波丸”“博愛丸”“信濃丸”等は後年の作品として、大正3年(1914)10月に川崎造船所で竣工した“八阪丸”(10,932総トン)の縮尺1/48の竣工模型が最初ではなかろうか。
“八阪丸”模型をバックに、作次郎氏と7人の社員を従えた記念写真が残されていることからも記念すべき作品であったことがうかがわれる。 本船は、欧州航路 諏訪丸級の第2番船で、竣工直後に第一次世界大戦が勃発、翌年12月に地中海でドイツ潜水艦の雷撃を受けて沈没してしまった薄幸の船である。
[写真36] 日本郵船“八阪丸”模型と作次郎氏たち |
その後は、川崎造船所で建造した大阪商船“はるぴん丸”、鉄道省“新羅丸”、日本郵船“豊橋丸”等の竣工模型を大正4年(1915)に製作するが、第1次世界大戦の終結した大正7年(1918)以降の世界的な海運・造船の不況期を経て、大正11年(1922)以降になると、川崎造船所を少し離れ、船主からの発注によるいわゆるオーナーズ・モデルとして、日本郵船の“白山丸”“筥崎丸”“長崎丸”“上海丸”“靖国丸”、さらに鉄道省、大阪商船、東京湾汽船等の竣工模型製作を行う。
[写真37] 関釜連絡船“新羅丸”模型の細部 |
中でも、傑作として今日に伝わるのが昭和4年(1929)三菱長崎造船所で建造された貨客船“浅間丸”(16,947総トン)の縮尺1/48の竣工模型であろう。 全長3.7メートルに及ぶ本模型は、横浜の日本郵船歴史博物館にて間近で見ることが出来るが、その甲板に並ぶ金メッキされた艤装品の仕上りの見事さ美しさは、正に美術工芸作品と称するに相応しいもので、船体の微妙なカーブの再現と相まって見飽きない力強さがある。
この浅間丸級の船舶模型は、今日確認できるだけでも様々な縮尺のものがあり、籾山模型とは確認できないものの昭和29年(1954)公開のハリウッド映画「麗しのサブリナ」(主演:オードリー・ヘプバーン、ハンフリー・ボガート)でも社長室の置物として出演?している。
[写真38] 日本郵船“浅間丸”模型 |
また「モデル・シップと40年」では、「お世話になった人」として大阪商船の元副社長 太田平五郎氏の名を挙げている。 かつて、作次郎氏が海軍より識別訓練用の軍艦模型を大量に注文されたとき、資金が無かったため太田氏に事情を話すと、すぐさま“ぶえのすあいれす丸”他3隻の模型製作を前払い金を払ってまで注文してくれたというのである。 結果、海軍の仕事も無事に終えることができたという。
確かに、大阪商船の竣工模型は、籾山より早く創業していた大阪模型製作所や旭金属工業 模型製作部等の作品が多いようだが、昭和10年(1935)になって“に志き丸”“吉林丸”“熱河丸”等を続けて受注する。 これが、あるいはこの逸話となる模型発注のことだったのかもしれない。
[写真39] 鈴与本社に展示中の“靖國丸”模型 |
[写真40] 横浜みなと博物館の“ぶえのすあいれす丸” |
[写真41] “名古屋丸”は三菱長崎造船所からの初注文 |
注目すべきは「モデル・シップと40年」中の写真解説に「1931年、“名古屋丸”1/96模型、幅は4尺8寸、三菱造船所からの初註文であった」と記されている点である。
石原産業汽船の“名古屋丸”は、三菱長崎造船所で昭和6年(1931)9月起工、昭和7年(1932)5月進水、同年8月に竣工したものである。 先に述べたように、作次郎氏は明治45年(1912)より20年間に亘って川崎造船所より月給50円をもらい続けた。 20年間というと昭和6年(1931)までということになるが、ほぼその時期まで川崎造船所に義理を立て他の造船所からの注文は直接受けなかったのであろう。
しかし“名古屋丸”を皮切りに、川崎造船所とライバル関係にあった三菱長崎造船所の注文にも応じ、竣工模型多数を製作することになった。
最後に、商船模型の大作として戦前最後を飾った、横浜みなと博物館の所蔵する大阪商船の“あるぜんちな丸”(12,755総トン)縮尺1/48と、船の科学館の所蔵する日本郵船の“新田丸”(17,150総トン)縮尺1/50の竣工模型を紹介しないわけにはいかない。
[写真42] 横浜みなと博物館の“あるぜんちな丸” |
[写真43] 船の科学館の“新田丸”模型 |
[写真44] “横浜丸”と“博愛丸”の細部 |
[写真45] “あるぜんちな丸”と“新田丸”の細部 |
両船は、昭和12年(1937)の「優秀船舶建造助成施設」に基づいて建造されたもので、“あるぜんちな丸”は南米東海岸航路に、“新田丸”は太平洋航路(当初は欧州航路用だったが第二次世界大戦で変更)に就航した。 しかし、太平洋戦争の勃発と推移に伴って、誕生時の宿命から両船共に空母に改造され短期間で戦没した悲運の船たちである。
模型も、本船の竣工に併せて製作されたものであるから、昭和14年(1939)5月と昭和15年(1940)3月に完成したものであろう。 “浅間丸”同様極めてよく出来た模型ではあるが、細部は若干見劣りする。 甲板上の艤装品も金メッキが施されておらず灰青色の塗装仕上げ、物資不足の中で贅沢な加工や金メッキ仕上げなどは時節柄とても出来なかったものと思われる。 それでも、ブリッジ内部にも手の込んだ航海計器類が実船同様に配置されており、物資は無くとも職人として手は抜かないといった信念のようなものを感じる作品である。
<表13> 籾山艦船模型製作所が製作した戦前の商船模型