「籾山模型の魅力」 ~ 創業100年 父子二代で生み出した珠玉の艦船模型 ~
「籾山模型の魅力」 ~ 2. 籾山家の歴史
船の科学館 飯沼一雄
籾山家の先祖は、三河国の住人でそもそも百姓を生業にしていたという。元亀3年(1572)、徳川家康が「三方ヶ原の戦い」で武田信玄に敗れたとき、敗走する家康を祖先が機転を利かして、庭先にあった脱穀作業中の籾穀の中に隠した。 武田勢は、執拗に家中を探し回り籾穀も槍で突いて確かめ、突いた槍は家康の脇腹をかすめて血が吹き出たというが、幸いにして血が籾穀に吸い取られ気付かれること無く難を逃れることが出来たという。
家康はこれに大いに感謝し、籾に助けられた因縁から祖先に籾山姓を与え名字帯刀も許し士族に取り立てた。 そして、後に家康に従って江戸に移り住み、徳川家の直参、幕府御家人に取り立てられることになったという。
こうした逸話が、籾山家には伝えられており、10代目にあたる籾山邦彦(くにひこ)氏は彰義隊の一員で飯能戦争や函館戦争にも参加、その長男で11代目の邦李(くにすえ)氏が、籾山作次郎氏の父ということになるのだという。
籾山邦李氏は、幕末の安政5年(1858)江戸に生まれ、麹町に住み、明治19年(1886)28歳の頃から海軍省に勤め、文官として法律を担当し山本権兵衛の付き人のようなことをしていたという。 しかし、もともと身体があまり強くなく、むしろ「東洲」の号を用いて書画をたしなむことを好む人柄だったことから明治28年(1895)に海軍を辞し、三越(三井呉服店、現:三越伊勢丹)に入社した。
明治28年(1895)といえば、日清戦争直後、三国干渉を受けたことから、強い海軍を作る為の大改革を山本権兵衛軍務局長が西郷従道(つぐみち)海軍大臣の命を受けて断行した年である。 1期及び2期の「海軍拡張計画」と共に将官・士官多数のリストラを含む行政改革が断行され、山本軍務局長は親しい人物も容赦なしに切り捨てたというから、あるいは邦李氏もその余波を受けて辞職に至ったものかもしれない。
ところで、作次郎氏によれば、今日も使われている三越の「○に越」の文字は、父 邦李氏が揮毫したものという。