「籾山模型の魅力」 ~ 創業100年 父子二代で生み出した珠玉の艦船模型 ~
「籾山模型の魅力」 ~ 8. 海軍の艦艇模型あれこれ
船の科学館 飯沼一雄
[1] 戦艦“扶桑”大模型、他の戦艦・空母模型
戦艦“扶桑”は、わが国初の超ド級戦艦 金剛級建造によって蓄積された技術により、独自に設計・建造された戦艦である。 45口径14インチ(35.6センチ)砲を連装した砲塔を6基も搭載し、蒸気タービンを主機として初めて常備排水量で30,000トンを超えた。 建造は呉工廠の大船渠にて明治45年(1912)3月11日に起工、大正3年(1914)3月28日進水、大正4年(1915)11月8日竣工した。
この、戦艦“扶桑”の縮尺1/16、全長12.8メートルにも及ぶ大模型が、かつて江田島の海軍兵学校内の「扶桑講堂」内に設置されていた。 この模型は、大きさが驚異的であるにも関わらず、その細密で正確なことは活目すべきものがあった。
[写真30] 戦艦“扶桑の大模型 |
本模型は、艤装品や構造物をあらかじめ工場で作っておいて現場に持ち込み職人全員で泊り込んで組立て作業を行ったものという。
なお、昭和4年(1929)夏に撮影された写真では大正4年(1915)11月の竣工時を再現した模型であったが、昭和7年(1932)アルバム所載の写真では、大正13年(1924)に行われた前檣の檣楼(ヤグラマスト)式への改造や1番煙突にスプーン型の排煙逆流防止フードを付けるなど、大正時代末期の実艦同様の改造が施されている。(但し、同時に第2~5番砲塔上の換装された8メートル測距儀は機密保持のためか装備されていない)
残念なことに、終戦後進駐した連合国軍のニュージランド軍兵士によって、無残に破損された姿となって運び出される様子が写真に残されているので、籾山模型として最大と思われるこの戦艦“扶桑”の大模型も永遠に姿を消してしまったものと思われる。
[写真31] 運び出される“扶桑大模型 |
その他の、籾山で製作した戦艦模型としては確認できるものは数が少なく、“榛名”“伊勢”“加賀”以外には、海軍省の注文で、昭和12年(1937)春に東京原宿に建設された「海軍館」に展示するため製作された戦艦“長門”や“陸奥”の縮尺1/120の模型があるくらいである。 本模型は、前部煙突を後部に大きく屈曲させた大正14年(1925)当時の姿を再現したもので、細部に渡り比較的良く再現された模型ではあるが、改装により換装された砲塔上及び艦橋上の測距儀は防諜上の理由によるものか省略されており、「海軍館」模型の共通した特徴となっている。
[写真32] 「海軍館」展示の戦艦“長門”模型 |
籾山製の航空母艦の模型はこれまた数が少ないが、戦艦“長門”模型同様に海軍省の注文により「海軍館」に展示された空母“赤城”縮尺1/120の模型(基準排水量34,364トン)がある。 比較的良く出来た模型であり、飛行甲板には90式艦上戦闘機がずらりと並んでいる。
[写真33] 「海軍館」展示の空母“赤城”模型 |
<表08> 籾山艦船模型製作所が製作した戦艦“扶桑”大模型、他戦艦/空母模型
[2] 巡洋艦模型
巡洋艦の模型製作としては、先にも記したように、日露戦争後の八八艦隊計画の一環として川崎造船所で建造された巡洋艦“平戸”が初であるが、本来製作していたであろう大正期に川崎造船所で建造した、球磨級の巡洋艦“大井”(基準排水量5,100トン、大正10年10月竣工)、長良級の巡洋艦“鬼怒”(基準排水量5,170トン、大正11年10月竣工)、川内級の巡洋艦“神通”(基準排水量5,195トン、大正14年7月竣工)、古鷹級の巡洋艦“加古”(基準排水量7,950トン、大正15年7月竣工)の竣工模型作品が見当たらない。
これらは、写真が無いだけで、木製もしくは銀製の竣工模型が作られたのではないかと思われる。
銀製模型として確認できるもは“平戸”に続き、三菱長崎造船所で大正10年(1921)1月に竣工した巡洋艦“多摩”、浦賀船渠で大正12年(1923)8月に竣工した巡洋艦“五十鈴”、川崎造船所で昭和2年(1927)9月竣工した巡洋艦“衣笠”、三菱長崎造船所で昭和4年(1929)4月竣工した巡洋艦“羽黒”などがある。 他にも竣工模型ではないが、平賀 譲中将の現役離職の記念品として昭和7年(1932)に製作された巡洋艦“妙高”の縮尺1/400の銀製模型も製作された。
軍艦においては、昭和4年(1929)竣工以降は、ビルダーズ・モデルとしての竣工模型が製作されなくなるようで興味深い。 代わって、昭和10年代以降は海軍省からの発注で各海軍工廠や各鎮守府、海軍館に納める模型として製作されるようになるものが多いことに気が付く。 軍縮条約下ネイバルホリデーを経て、条約型巡洋艦の建造にあたっては、これまであまり意識されてこなかった、防諜上の秘匿性が模型製作の上では大きな足かせになってきたものではなかろうか。
海軍省発注の艦艇模型としては、海軍経理学校に納入された“高雄”縮尺1/120模型、「海軍館」に納入された“鳥海”縮尺1/120模型などがある。
[写真34] 「海軍館」展示の重巡“高雄”模型 |
<表09> 籾山艦船模型製作所が製作した巡洋艦模型
[3] 駆逐艦模型
駆逐艦模型として最も古いのは、八八艦隊構想の一環として計画され大型航洋駆逐艦 磯風級の最終艦として川崎造船所で初建造された“時津風”縮尺1/192の銀製竣工模型、続く樅級で川崎造船所建造の“梨”、浦賀船渠建造の“柿”、そして樅級を拡大改良した若竹級のネームシップ“若竹”の4点の竣工模型が挙げられる。
昭和期以降では、海軍省の発注で、教育用として横須賀、呉、佐世保、舞鶴の各鎮守府に納入された特型駆逐艦“東雲”4隻や、原宿の「海軍館」に納入された同じく特型駆逐艦“綾波”などがある。
なお、それ以下の特型駆逐艦“狭霧”、朝潮型駆逐艦“朝潮”、“朝霧”、“文月”はいずれも個人や博物館等に贈呈するため後年製作されたものである。
<表10> 籾山艦船模型製作所が製作した駆逐艦模型
[4] 潜水艦模型
潜水艦模型も籾山模型としては数少なく、サイズも小さくて、昭和8~10年にかけて海軍省からの注文品で「海軍館」に展示されたものが多かった。先に述べたように、潜水艦の銀製竣工模型としては、今のところ川崎造船所で昭和4年(1929)4月に竣工した“伊61”が唯一である。
<表11> 籾山艦船模型製作所が製作した潜水艦模型
[5] 識別訓練用の洋上模型
昭和12年(1937)7月以降、支那事変(日中戦争)が始まり、翌昭和13年(1938)からは「国家総動員法」が制定され、物資の統制は強まり米を始めとした食料から、木炭、マッチ、特に金属材料等が手に入り難くなると、船舶模型製作の注文は急速に少なくなる。 代わって、戦時体制下にあっては、軍事目的の識別訓練用洋上模型の製作注文が海軍省より大量に入ることになる。
「モデル・シップと40年」には、水雷学校に納めた縮尺1/500の識別訓練用洋上模型の写真が掲載されているが、こうした米国を始めとする敵国艦船の識別訓練用洋上模型を作次郎氏は「何千も作った」、そして「25名ほどの職人では間に合わず、数10人の彫刻家に下請けさせたこともあった」とも述懐している。 『籾山模型写真集』の中で泉氏は、写真から確認できる数として670隻という数字を挙げているが、さらにたくさんの洋上識別模型が製作されたであろうことは間違いない。
[写真35] 海軍航空隊用艦船洋上識別模型 |
作次郎氏に直接伺った折に「日本海軍向けに製作した米英の識別訓練用の洋上模型は、海軍航空隊向けとしては、上空から識別できるように、色、リノリウム、木甲板など識別点を中心に製作した。 これに比べて、艦上からの識別模型は上から見た違いなどは再現しなくてよかった」と語るとともに、「真珠湾攻撃前にも製作した」と当時のことを思い出して語られた。
このように上空からの識別訓練用の洋上模型の製作を多数求められたのは、昭和15年(1940)9月、第2次近衛内閣が日独伊三国同盟を締結し米英との戦争が不可避となって、山本五十六中将によるハワイ在泊の米太平洋艦隊への奇襲攻撃や、英国東洋艦隊への攻撃を企画してからのことであろう。 残された写真では、真珠湾攻撃時に撃沈した米戦艦“アリゾナ”の洋上模型が8隻一挙に製作されていることを確認できるものもある。
他にも、佐藤船舶工芸の佐藤社長が所蔵している「米軍艦船識別模型」や、オークションに登場した洋上模型もあるが、いずれも箱に収められてセットとして製作されており、海軍のみならず光学式の測距儀を製作した日本光学や電子機器を製作する東京計器等に収められたものや、さらに小スケールのものなどが多数あったとのことである。
戦時下にあって、艦艇の竣工模型は製作されなくなったものの、こうした海軍の作戦行動に直接かかわる実用的な艦船識別用の洋上模型製作の需要が高まり、当時の籾山模型の主流となっていった。
<表12> 籾山艦船模型製作所が製作した艦船識別用の洋上模型